自動化 ⑥

 という感じで、社会の完全な自動化を実現するうえでの技術的障壁についていろいろと書いてきたわけだが、ここまででひとつ、完全に目を背けてきたことがある。

 

 それは障壁のひとつと呼べる。その障壁は、完全に技術的なものだと言い切るのには無理があるとしても、技術的な部分がメインである。その障壁を乗り越えるための技術を人類の科学は開発していない。開発しようとしているひとがいるのかどうかは分からないが、すくなくとも、主要な目標ではない。

 

 けれどもそれなしには社会はけっして、完全に自動化されたとは言えない。その問題を解決せずとも社会はよりよくはなる。技術は発展する。だがそれは、あくまで全自動化の前夜であり、ただのとても便利な社会にすぎない。

 

 その状態で起こることはたかが知れている。多少は革命的かもしれないが、すくなくとも、作業からの解放という人類史上の巨大革命ではない。現代社会が数十年前の社会と比べてより便利であるのと同じように、未来世界は現代世界と比べて便利である、と、それだけの話にしかなりえない。

 

 自動化された社会というシステムを自動車にたとえてみよう。その障壁はエンジンでもフレームでもない。ハンドルでもアクセルでもブレーキでも、トランクでもバッテリーでもシートベルトでもエアバッグでもない。その他ありとあらゆる、名前の付いた個別のパーツではない。それらのあいだに存在するボルトやビス、溶接技術、その他無数の接合部である。

 

 個別に開発された、ブラックボックスとしての技術を、つなぎ合わせる部分の自動化。荷物の積み下ろし。完全に社会を自動化すると言ったとき、わたしたちは個々のパーツを想像する。だがパーツだけではシステムは動かない。

 

 いや。むしろわたしたちは、その接合部の設計にこそ本質的な難しさを感じているのかもしれない。個々のパーツに必要な技術ではなく、複数のまったく異なるシステムのあいだを完璧な形でつなぎ合わせることの難しさ、もどかしさこそが、社会の自動化に向けた最後の足枷だと思っているのかもしれない。

 

 しかしそのことは、なかなかだれも言わない。

 

 なぜ言わないのか。それがどのようなかたちをしているのか、だれにも想像がつかないからだ。

 

 固定された仕事をする各パーツと比べ、それの行う仕事はアドホックで、一般化の難しい領域である。それは間違いなく技術的な障壁であるが、それ以上に、想像力に対する挑戦でもある。現状だとダメだということと、その部分にはなんらかの意思決定能力が求められていることは素人でも分かる。だが、それ以上が分からない。

 

 分からないからこそ、その問題は解決がもっとも難しく、それと同時に、無視される。