アナロジー

まったく遠くにあるふたつのものに類似性を見出し、それらが成している構造が実は同一であると主張するのは、たいていの場合無益な行動である。たとえ一点たしかに似ていると呼ぶべき点があったとして、世の中たいていのことには、その共通点以外にもたくさんの重要な要素が付随しているのである。

 

とはいえその手の語りのすべてがまったく無駄である、ということにもならない。というのも、ものごとの理解には程度の違いがあるからである。別の概念とのアナロジーを考えた先に真の理解は宿るということは決してないだろうけれど、ある程度の理解で良ければ、獲得できることもそれなりにある。

 

サイエンス・フィクションの科学描写を考えてみよう。そこで書かれる科学技術は架空のもので、要するに現実世界には実現されていない。実現されない理由は金銭やランダム性などというつまらないものではなく、現時点のわたしたちの単純な技術的思想的限界か、あるいは物理法則の都合の悪さにもとづくものだ。とにかくわたしたち人類は、科学的に最大限真摯になったのなら、その技術を現実のものにする方法を知らない。

 

そんな科学の仕組みがまともに描写できるわけがない。描写できるのならそれは実現方法を知っているということだから。だからわたしたちは真摯な理解をあきらめて子供だましの説明で満足するわけで、そしてそこでしばしば用いられるのが、アナロジーというテクニックなのである。

 

たとえば時間は、しばしば川の流れに喩えられる。そして過去へのタイムスリップとは、流れを逆流させるに足りるだけの「時間的エネルギー」をどこかから持ってきて、対象物に与えることだと説明される。宇宙は紙に喩えられ、異世界との関わりはその紙面同士が互いに触れ合うことに対応している。それだとまだ説得力に欠けるから、ちゃんと説明すると難しいのだという雰囲気を出すため、はるかに高次元で起こっているイメージ困難な出来事をあえて二次元に射影して描写しているのだ、などという、なんだかよく分からない補足をつける。

 

そして読者はそういう小手先の類似性を与えられて、まあそういうものか、と理解した気になるのである。

 

以上はあくまでフィクションのお約束であった。ちゃんとした説明が原理的に不可能であることは読者も分かっており、だから作者に多くを求めない。アナロジーは物語上都合のいい範囲で読者を説得することができ、かくして有用である。

 

そしてよく考えればそういうシチュエーションは、なにも物語の中に限って現れるものでもない。現実世界でもまた、アナロジーは有用である。しっかりとした説明が事実上不可能である状況。わざわざ科学技術上の困難性なんて持ち出さなくても、単にそれは、聞き手の知識が不十分なだけでいつでも発生するのだから。