公正宇宙仮説

宇宙とは限りのない未知である。宇宙のほどんどの部分を人類はけっして見ることはなく、そしてもちろん、行くこともない。宇宙が実際に存在し、百三十八億光年の彼方までの空間的広がりを持っていることをわたしたちは知っているかもしれないけれど、そのことを実際に行って確かめてみるなんてことは、だれにもできない。

 

そういう意味で宇宙とは、わたしたちの想像のなかの存在とも言えるかもしれない。わたしたちの科学が、観測と理論の帰結として、その存在と性質を説いているだけの空間。かりに宇宙が幻で、たとえば太陽系の外側領域はすべて精巧につくられたプラネタリウムであったとしても、わたしたちはなにも困らない。それらの世界の地理も、それらの世界で起こるいかなる科学現象も、けっしてわたしたちの人生と直接的なかかわりを持たないのだから。

 

さて。けれども宇宙の実態に関して、人類が本当になにも知らないわけではない。人類は月に行ったし、金星や火星に探査機を飛ばした。それらの惑星の表面を写真に収めた。そもそも科学の黎明期に、天球内で一定の大きさを持つ天体として、望遠鏡を通じて地球から観測した。近宇宙は、人類にとってすでに、実際に存在を確認した場所なのだ。遠くの天体とは――ただの点でしかない恒星や、恒星の光量の変化履歴から間接的に存在を確かめるしかないような惑星などとは――勝手が違うのだ。

 

そしてそれゆえに。火星や金星をわたしたちがよく知っているゆえに、そんな近所の天体について、わたしたちはそう大層なことを言えないのである。

 

宇宙人は存在するか。夢という文脈で宇宙を語るうえで、この問いは外せないだろう。最大限科学的かつ真摯に答えるとして、この問いにはいくつかの答え方がある。宇宙はこれだけ広いのだから、どこかに生命はあるだろうと答えるのは理にかなっている。生命という存在の驚くべき精巧さを鑑み、こんなものが他所で現れるはずがないと考えるのもまっとうだ。どちらが正解であったにせよ、どちらの説を唱えようが、だれからも馬鹿にされる筋合いなどない。

 

そして。どちらが正解なのかを知る日は、けっして来ない。けっして来ないと、わたしたちの多くは信じている。

 

それはつまり、人類の到達可能な宇宙には生命など存在しないと、わたしたちがなかば知っているということでもある。

 

火星に生き物はいない。木星の衛星の、氷の下にもいない。そう確信させるだけの根拠を科学はわたしたちに提示し、だからこそわたしたちはそう信じる。金星の表面が暑すぎるという知識を獲得してしまったがゆえに、わたしたちは金星人の存在を信じなくなる。

 

いや。もしかすれば、根拠は科学ですらない可能性がある。火星なんていう近場に、宇宙人などいてたまるか。そんな都合のいい奇跡に、人類などが到達可能であってたまるか。近い宇宙に夢を見ない理由とは、もしかすればそんな、公正世界仮説のようなものなのかもしれない。