科学的とはなにか

ひとはなにをもって、なにかを科学的だと判断するのか。そしてなにをもって、非科学的だと糾弾するのか。それらを分ける基準を、ひとはどこに置いているのだろうか。

 

科学そのものが基準ではないという話は昨日した通りだ。科学を基準にするとはすなわち論文や教科書を参照するという意味だけれど、そんな面倒なことは誰もしない。だいたいそれなら、これから実現される科学技術はすべて非科学的だということになってしまう。火星への有人飛行だとか、古典コンピュータをはるかにしのぐ性能の量子コンピュータの建造だとかを実際に実行した実験はないが、それらはべつに非科学的なのではない。単にまだ実現されていない、人類の見ている夢なだけだ。

 

科学的だとか非科学的だとかいう判断はもっとプリミティブなところにある。たとえばタイムマシンはおそらく非科学的だ。科学がそれを実現する可能性は現時点ではないとされており、そして分かりやすい矛盾を引き起こす。血液型占いは非科学的で、その理由は確か、それが迷信であるべき説明が広く信じられているからだ。おおらかだとか几帳面だとかそういう性質はあくまでそれぞれのひとの一面を切り取っただけで、どの血液型に対応する性格も結局、ほとんどすべてのひとに当てはまるのだと。

 

暑い日に水を飲むと精神力が弱るというのも非科学的だ。精神力なるものを科学は取り扱わないし、そしてなにより、暑い日に水を飲まないと死ぬということを科学は実証している。ソーシャルゲームのキャラクターの絵を描けばガチャでそのキャラが出るというのだってもちろん、非科学的だ。ゲームの仕組みはデジタルに決まっている……そしてガチャを回すプログラムが、そのひとが絵を描いたかどうかを認識するすべは存在しない。

 

こう見ると、非科学的という判断の基準は非常に多岐にわたることが分かる。存在すると矛盾する。そうでない説明が信じられている。科学が定義しないパラメータを使っている、利益より大きなリスクを肯定するのは科学ではない。ふたつのことがらが確率的に独立であるがゆえに、関係が発生しえない。

 

科学的であることはきっと、これらの反対の概念として定義されるのだろう。存在しても矛盾せず、通説とも相反しない。構成するすべての要素が科学的な概念に基づいている。結論が合理的である。無関係なものごとに関係を見出そうとしない。ぱっと思いついた例からぱっと挙げただけの条件だから、きっとほかにもたくさんの条件がある。

 

科学的とは消去法の概念だ。科学でないものをひとつひとつすべて切り捨てていった結果、それでも科学が説明する可能性があると思われるものが科学的なのだ。そう考えると科学的とは、ずいぶんと厳しい概念な気がする。非科学的だとわたしたちが思うものを、ひとつも含んではいけないのだから。