比喩 ⑥

 現代に生きている以上、わたしたちは非常に頻繁に比喩表現を目にすることになる。

 

 そのすべてが共感できる表現であるわけではない。作者にとっては分かりやすいのかもしれないけれど読者には分からないたとえというものは存在して、そういうときわたしたちは、なんだかよくわからないな、という気分になる。とはいえそれはしょせん比喩に過ぎないので、ならきっと作者と感性が合わなかったんだな、ということにして、無視して次を読み進める。

 

 とはいえほとんどの比喩をわたしたちは問題なく受け入れられる。それはあくまで比喩に過ぎず、前提と文化を共有していない人間には分からないはずであるにもかかわらず、そして前提と文化の共有などということはここ最近どんどん望めなくなってきているものであるにもかかわらず、である。たいていのたとえは通じる。それは驚くべきことである。

 

 理由を分析することはできよう。

 

 ひとつ。比喩表現はあいまいだから、それに強烈な違和感を覚えることも少ない。だからたとえ比喩が分からなくても、その経験は印象に残らない。分からなくて困るという経験をしていないから、通じている気になっている。

 

 あるいは。比喩の多くは定型化している。たとえば「山のように」というのは厳密に言えば直喩表現だが、実際のところ比喩として理解されることはほとんどない。それは単に「おびただしい」ということばの決まった言い換えに過ぎず、したがってこういう比喩を理解するにはわざわざ感性を合わせる必要などない。ただ、辞書的な意味を知っていればいいだけだ。

 

 それらはそれなりに説得力のある説明である。ありとあらゆる疑問に対してでっちあげることのできる、短絡的で面白みのない自己解決だ。面白くないので、語る価値もない。ましてや、それを文章の主題になどできやしない。

 

 わたしたちは比喩を不思議なほど理解できる。そして具体的な比喩を見てみれば、その原因が過去の経験とか人生の厚みとか、そんなところに根差しているわけではない、ということもまた、分かってくる。

 

 たとえば。グロテスクな例で恐縮だが、内臓をかきむしられるような痛み、という表現がある。定型表現の一種であり、あくまで機械的に用いることもできることばだが、それと同時に、読者の脳内に鋭く重い痛みを想起させる表現でもある。

 

 ここで注目したいのが、この世のほとんどだれも、そんな痛みを具体的に経験したことなどないということだ。