比喩 ①

 普段、わたしは文章の中で、めったに比喩表現というものを使わない。

 

 というのも、比喩とはあいまいだからだ。文章にはたしかに芸術としての顔があるが、それ以上に正確な情報伝達のための手段である。比喩とはひとによって受け取りかたが違うものだから、伝えたい内容を正しく伝えるという目的にはまったくそぐわない。

 

 わたしは普段論文を書く。論文とは考えたことを客観的に理解可能な形で伝えるための文章である。とくに数学ではその傾向は顕著で、厳密さへの要求が通常の自然言語の手に余るものにまで膨れ上がった結果、独自の記法を発明して普及させたりしている。そこに比喩の入り込む余地はない。概念の定義に「○○のようなもの」なんていうセンテンスがあらわれては、数学はおしまいである。

 

 あるいは文章とは、書き手のなかに理解をかたちづくる手段である。よく分かっていないことでも、書いているうちに思考が整理され、体系化されて脳に格納される、という経験を、わたしは毎週のようにしている。この日記の存在意義の大部分はその点にあり、そしてそこにもやはり、比喩のあいまいさはお呼びでない。

 

 そう考えるのは先ほどと同じく、わたしが数学の人間だからかもしれない。なにかを理解するということをわたしは、自分の感覚をそこからあいまいさを極力排除した客観的な表現に落とし込むということだと理解している。比喩とはそのいとなみの対極を行く表現であって、的確な表現をどうしても思いつかないやつがそれらしいことを言うための、くだらない逃げ場である。

 

 というのが、わたしが文章というものに対して抱いている、ほとんど幻想とも言っていい理想論である。

 

 実際には、すべての概念が正確なことばになるとは限らない。その原因が厳密なことばというものの表現能力の乏しさによるものなのか、あるいはわたしの語彙力の不足によるものなのかは分からないが、すくなくともわたしには無理だ。ことばにしようとして上手くいかず、存在するかもわからない正解のまわりをぐるぐる回り続けながら不完全なことばを紡ぎ出す経験を、わたしは嫌というほどしてきている。この日記は、そういうもどかしいニアミスの集合体である。

 

 そしてこれは昨日はじめて意識したことだが、そういう場合にはときおり、一見してなんの厳密さも宿らないように見える比喩表現こそが、正確性の意味でさえももっとも妥当な表現になりうるのである。