格言の丸暗記

入門書を読んで勉強し、それから実践に役立てること。最初はよくわからなかった本の記述が、手を動かしているうちに突然腑に落ちること。なんのためにそんなことにこだわるのか、なぜそれが重要なのかも分からないままにとりあえず丸暗記したことばが、長い時間をかけて身体に沁みわたってゆくこと。そうやって徐々に、筆者が想定したとおりの理解を育ててゆくこと。

 

そういう経験を実のところ、わたしはあまりしたことがない。

 

だれかのことばを自分のものにするという行為を、その手の行為だととらえるひとは多い。最初に格言を知り、あとからその意味を理解するという順路としてだ。その認識はたいてい、謙虚さへの礼賛へとつながる。たとえ意味が分からなくとも、まずは謙虚に聞いておきなさい。分からないからと言って、即座に切り捨てて忘れてしまわないようにしなさい。覚えておけばあとから、きっと理解できるはずだから。

 

人口に膾炙した考え方だけあって、その態度にも一理はある。実際にそうすることが可能なら、確かに人生を豊かにするだろう。意味不明なことばを聞いてはいちいち暗記し、それを理解できる状況を経験するまで覚えておき、そして適切な状況で明確に思い出すということが可能であったなら、ひとは世界を何倍ものスピードで理解できるかもしれない。並みの人間の記憶力では、そんなことがほとんど不可能であるという点に目をつぶれば。

 

たいていの格言は、その順に身につきはしない。見たときにすっかり意味を理解するか、あるいは理解せずに忘れるか。意味を理解できたのなら、それは良いことだ。自分がすでにぼんやりとは理解していたことに、明確な言語化が与えられたわけだから。そんな格言は心に響き、身につく。ぼんやりとしていたものが突然明快になったとき、ひとは大きな衝撃を覚えるからだ。

 

けれど。何もない空間に意味不明なものを投入されても、響くものは基本、なにひとつない。

 

ごくたまになぜか印象に残るものがある、ということはこの際認めよう。意味不明なのに覚えていることばも少しはあることを否定はしないでおこう。わたしにだって、後から意味の分かったことばがいくつかあることを白状しよう。そしてその事実を、わたしの深層心理かなにかにこじつけて説明しようという不毛かつ欺瞞的な試みは、始めないでおこう。

 

「どれかひとつでも覚えて帰ってください」。このことばはおそらく、もっとも現実をよく表している。すべてを覚えて帰るのは不可能、けれどこれまで話してきた内容が、相手にとってまったくの虚無であってほしくはない。原理的には虚無にならざるを得ないからこそ、そうでない可能性に賭けるのは筋が通っている。どれかひとつでも、相手の心に響く可能性に、ダメ元で。

 

けれどやはり、そういう賭けは分が悪い。今風に言えば、コストパフォーマンスが悪い。だからこそ、順番は異なるべきだと思っている。そう。

 

まずは実践し、それから学ぶ。