非言語思考 ①

 人間はつねにことばによって思考する、という言説は広く信じられているらしく、人間がほかの動物と違ってここまで社会を発展させられたのはわたしたちがことばを持つからなんですよ、などと、小さいころから繰り返し聞かされてきた。

 

 広く信じられていることなのでたぶん正しいのだろう。だが初めてそう教わったとき、そんなのは嘘だと幼心にわたしは思った。その手の疑問のほとんどは、小さいころには分からなくても大人になると理解できてくるものではあるが、この件に関してだけはいまだに納得が行っていない。

 

 納得が行かないので、どうしてそんなことになっているのかを理解し、言語化してみたい。ことばで思考するとは限らないということをことばによって語らんとするとはどういう風の吹きまわしかという指摘についてはこの際、潔く無視することにする。

 

 まず前提として、わたしは数学をやる人間である。

 

 言い換えれば、人生の中でもっとも思考をしていると感じる瞬間は、数学の問題を考えている瞬間である、ということだ。

 

 もちろん世の中には数学以外にも考えることは山ほどあるし、そのうちいくつかは、あくまで定式化できる範囲内のことしか扱えない数学と比べて、より根源的な問いではある。あるのだが、純粋に思考の質というか、それが脳に与える負荷の量を考えたとき、わたしがいちばん苛烈に脳を動かしていると思うのはやはり、数学をしているときである。

 

 そしてわたしにとって数学とは、必ずしもことばで考えるものではない。というかむしろ、数学がことばでいるうちはまだ、本質的な意味で数学を考えられているとは言えない、とまで思っている。わたしが本当にしっかりと数学を考えられていると思う瞬間、あるいは他人によって書かれた数学を真に理解していると思う瞬間、わたしの脳内に書かれているのは定式化された記述ではない。どう説明すればいいのか分からないがとにかく、あるのはある種の図、イメージである。

 

 おそらくそれはわたしに限った話ではない。数学をやる人間の全員がわたしと同じではないだろうが(経験的事実として知り合いの中には、数式を脳内でも数式のまま扱っているとしか思えない考えかたをする人間が少なからずいる)、全員が異なるということもないだろう。それを証拠に、教科書に書かれた、なんの数学的厳密性もない図が、学習者の理解を助けるものであるとされている。その図を用いてわたしたちは数学を理解し、構築し、発展させるわけである。