比喩 ③

 真空を切り裂くような冷たい音の一閃。こう表現される音はどんな音だろうか。

 

 文字通りに見れば、この表現にはいろいろとおかしなところがある。音は真空中を伝わらないというのはたしかにそうだが、それ以上に、音は冷たくならない。さらに言えば、「一閃」というのは光に対して用いる表現である。音は光ではないし、光が冷たいということもあり得ない。

 

 おそらくだが、このように表現される音を具体的に想像できるひとはそんなにいないのではないだろうか。というのもこの表現は、音のことをなにも表現していないからである。

 

 そう考えるとナンセンスに見えてくる。音が表現されているはずなのに、肝心の音が鳴り響いてこないのだから。見たものを正確に表現するという目的においては、この表現は失格である。

 

 だがこの矛盾した光のような音の表現が、いっさいなんの情報量も含んでいないのかといえば、まったくそういうことはないのである。

 

 地鳴りのような轟音、という例をさきほど挙げた。非常にオーソドックスな大音量の表現であり、その大きさと驚きをストレートに伝える比喩である。真空を切り裂く音の一閃には、そのようにまっすぐな具体性はない。だがそれでも、わたしたちは理解できる。

 

 それらふたつの表現に対応する音は、音としてはまったく異なる種類のものである、ということを。

 

 より分かりやすく言おう。地鳴りのような轟音のあとに続くのは、その音の無秩序な余韻だ。山々は秒単位の時間をかけて崩れる。ひとびとは悲鳴を上げる。距離を超えて連鎖し、近所のどこかでまた別の破壊を生みながら、音はべつの音と乱雑に重なり、区別不能になっていく。

 

 反面、真空を切り裂く音の直後には静寂が来る。その音の余韻はその場のだれもが感じている、だがそれは具体的な音ではなく、ひとびとの心の中で鳴っているのだ。だれもがそれに衝撃を受け、立ちすくみ、思考を停止し、現状を理解できず、空気は張り詰め、まるで時間が止まったかのように感じる。ほんの一瞬かもしれないが、そういう瞬間がたしかにある。

 

 真空を切り裂く音など存在しない。それでもこの表現には、そのような情景を確実に想起させるだけの、はっきりとした具体性があるのである。

 

 比喩がもし説明の放棄であり、厳密なことばが完全にすべてを説明しうるのならば、比喩の力を借りずともこの情景を作り出せるはずである。だが、そんなことはできるだろうか? かりにできたとして、それはこれほどまでに簡潔な表現になりうるだろうか?

 

 ならない、とわたしは思い始めた。

 

 そして、なにかを言語化すると主張するとき、厳密なことばにすることよりも適切な比喩を考え出すことのほうがもしかするとよほど正確な言語化になっているのかもしれないと、そう思うようになった次第である。