歯痛 ④

 歯の状況は昨日と同じである。普段はまったく痛くなく、別のなにかに集中していると痛みがあったことすら忘れているくらいだが、ふとした拍子に突然痛み出す。痛みの発端には、気を付けていれば避けられるものからまったく避けようがないものまでたくさんあり、避けられるものに限ってもすべてを把握するのは不可能だ。たとえ把握できたとして、その一部は「食事中にものを噛む」「布団に横になる」などの行動だから、廃人になりたくないのなら結局は避けては通れない。

 

 痛みは痛い。痛みなのだから痛いのは当たり前だが、とにかく痛い。痛いのはあくまで歯であって痛みではないだろうと言われれば間違いないが、そう指摘されたところで痛みは和らがない。あまり大っぴらに言うと痛々しい自慢になりそうだから控えめに言うが、わたしは自分自身のことを痛みに強いほうの人間だと思っている。実際、衆目の前で転んだり蹴飛ばされたりしたとき、周囲の心配をよそに当のわたし自身はぜんぜん平気で、宙ぶらりんになった不安だけがその場に残っておかしな空気になる、といったことがけっこうある。そのわたしが痛いと言っているのだから、痛みは痛い。激痛というやつである。

 

 ……もうすこしマシな表現はないものか。痛みを表現するのにわたしは、痛みそのものを忠実にことばにするのではなく、このわたしが痛いと言っているとかそういう周辺情報を提示して語った気になっているわけだが、あまりそれは望ましくない。痛いのなら痛さを直接表現するべきであり、世の優秀な文筆家はそれができている。そういう文章を読むと、まるで読んでいるわたし自身が思わず痛みを感じたと錯覚し、痛みから逃げようと思わず目をそむけたくなってしまうようなそんな感覚に陥るのであって、そういう文章がありうる以上、わたしはそれを書くべきである。

 

 激しい痛みをあらわすことばを、わたしは「激痛」しか知らない。特定の痛みを表すなら、頭痛をあらわす「頭蓋骨の中で鐘をガンガンと打ち鳴らしたような痛み」や腹部の内傷をあらわす「内臓をかきまわすような痛み」があるが、歯痛では思いつかない。こういう表現は分かりやすさが命であり、理屈よりも感覚に訴えかけて痛みを伝えられることが大切であり、工夫して奇をてらったオリジナルの表現は、分かりにくいという一点をもって不適切だ。オリジナリティを出すのが良くないというのはつまりこの痛みを正確に言語化しようと試みてはならないということであり、だったらわたしはどうやってこれを表現すればいいのだ?

 

 よく観察してみれば、既存の表現は十分技巧的である。頭痛を「頭蓋骨の中で鐘を打ち鳴らす」と表現するのはきわめて普通のことだが、いざお前の頭の痛みを表現しろと言われて、そんな表現は出てくるわけがない。出てくるのはせいぜい「ロープで締め付けられるような痛み」くらいであり、寺社の鐘を登場させて脳の代わりに頭蓋に収納しようなんてことは、普通は思わない。だからきっと、わたしは適切な表現を覚える必要があり――そして今回の場合、それはきっと「剥き出しになった神経をペンチでつままれるような痛み」とか、だいたいそんなものだろう。