比喩 ④

 情景について書いた文章は、その情景そのものではない。たとえどれほど細部にわたってこまごまと正確な記述を試みたところで、そもそも情報量がどうやっても足りないから、どうしようもない。

 

 このレトリックは普通、文章という表現形態の限界を示すためのものである。写真や動画など、ほかのもっと大きな表現が伝えることのできるもののほとんどを、文章は原理上伝えられない、というわけだ。実際、この点がクリティカルに効いてくる分野がいくつかある。たとえば犯罪の捜査などでは、監視カメラの映像は素晴らしい状況証拠となりうるが、現場についていかに詳細に文章で記述したところで、それは完璧な証拠にはなりえない。

 

 けれどももちろん、そのことは文章という形態がほかと比べて劣っているということを意味するものではない。原始的である、ということならば意味するかもしれないけれども。

 

 そんなことをわざわざ言うのはわたしのポジショントークだ。わたしはここで文章を書いており、そのための口実として、文章が写真や映像には表現できないなにかを表現できると信じている。絵が描けないかわりにわたしは文章を書くわけだが、そうやって絵を練習しないわたしを正当化できるのは、文章が絵には表現できないなにかを表現できると考えているからである。

 

 だからもしかすると、これから書くことはまったくの妄想かもしれない。わたしが文章の力を信じているのはわたしに見えている世界が文章の世界くらいしかないからである、という可能性は、わたし自身の認識の力だけで排除できるものではない。

 

 文章は実際にはありえない情景を描くことができる、とわたしは考えている。

 

 物理的に不可能な情景、という意味ではない。

 

 物理法則に反するくらいでよければ、絵画にも簡単にできる。写真を読み込んだ機械が写真をもとにしてつくった表現をまだ写真と呼ぶならば、写真や動画にすら可能である。地球重力下でなにかが浮遊しているくらいならば、工夫すれば実現できる。

 

 文章でのみ描けるとわたしの思う情景は、もっとあいまいなものだ。景観とすら呼べないかもしれない。それは小説にあらわれる情景描写を「普通に」読むときの景色であり、全体の構図をそれほどつぶさに想像しようと試みることなしに描写を読んだときに脳内にたちあらわれる、あいまいでつかみどころのない景色である。細部に手を伸ばせども届かないか、あるいはいたるところが矛盾して簡単に崩れ去ってしまう、まどろみの中の夢の情景である。