比喩 ②

 比喩という表現技法に求められている役割はひとつだけだ、とわたしは信じ込んでいた。

 

 役割というのは文章に詩的なフレーバーを持たせることである。実際に見る比喩表現のほとんどには多かれ少なかれそういう側面があり、詩情なるものの持つ力を用いてなにかを誇張したり、情景を色鮮やかにするために用いられている。

 

 たとえば文章の中で、なにかものすごく巨大な音を表現したかったとしよう。文章は音声情報ではないので、それを直接的に写し取ることはできない。だからこそ技術の粋を尽くし、その爆音の尋常でなさを読者の脳内に再現しようと試みるわけだが、そのために用いるべき手法は、その音のデシベル値を素直に記述することでは絶対にない。

 

 かわりにわたしたちは比喩を使う。「地割れのような轟音が耳をつんざいた」とかいうのが典型的な例であり、地割れの音を聞いたことも耳をつんざかれたことのある人間もそうそういないにもかかわらず、しっかりと通じる表現である。「真空を切り裂くような冷たい音の一閃」なんかは、音は真空中を伝わらないということと音に温度は存在しないということのふたつの物理的事実に真っ向から反しているにもかかわらず、やはりはっきりと音質を伝える。

 

 変化球を投げるとすれば、「会場中の観客の肩がいっせいにびくりと跳ね上がった」なんかもある。音に直接言及しなくとも、音の大きさは表現できている。カジュアルな例だと、「鼓膜が破れるかと思った」なんかも、れっきとした比喩である。

 

 それらはたしかに巨大な音を表している。ほかのなにを置いておいても、とりあえずその音が巨大だったことだけは、しっかりと伝わる表現になっているはずである。そしてまた、単に論文のようにデシベル値を記録するよりもよほど臨場感に溢れる、芸術作品としての文章に相応しい形態になっているはずでもある。

 

 しかしながらそれらの、一見あいまいで具体的になにを言っているのかなど考えても仕方がないように見える表現は、音の大きさ以上にもたくさんの情報を伝えているのである。

 

 地割れのような轟音。こう表現される音を聞くとき、きっとそのひとは突然のことに驚いている。その音が鳴ることをある程度までは予期できていたかもしれず、あるいはそのタイミングを知っていたかもしれないものの、それほど巨大な音がいまこの瞬間に鳴るとまでは思っていなかったはずである。なぜかと言えば、予期できていたならば、耳がつんざかれることへの対策をしっかりと取っていたはずだからである。