正確性と網羅性

数学を専門としているひとは仕事柄、ことばを異常なまでの厳密性をもって運用することに慣れているし、その細かさはなにも数学だけではなく、日常の何気ない会話にも適用される。あいまいな発言はすべからく悪か、あるいはなにも言っていないに等しいものとみなされ、解釈の一意性がいつでも担保されるよう、わたしたちはことばづかいの細部を気にかける。

 

わたしたちはまた、発言に網羅性を求める。A はかならず B である、といった言明をわたしたちは軽率に用いることはなく、もしもそういうことを言いたいのなら、B であるための条件をつぶさに調べ上げ、例外をとことん排除することを真摯さだとみなす。といってもわたしたちはあくまで数学の徒、条件をしらみつぶしにすることがときに途方もなく困難であるということをよく理解しているから、網羅性という高すぎる要求から逃れるすべというか言い訳というか、そういう逃げ道も用意している。完全に理解してはいないことについて軽々しく言い切らない、というのがその逃げ道の正体で、だからわたしたちが真面目に話すときは基本的に、そのための副詞を差し挟む。

 

かくして「たいてい」とか「基本的に」とか、「ほとんどの場合」とか「通常は」とか、「だいたい」とか「多くは」とか「特殊な場合を除いて」とか「限りなく百パーセントに近い確率で」とか、とにかくものごとを言い切らないという役割だけを持つことばが、なかば口癖のように、わたしたちの発話のなかで繰り返されるのである。

 

そうした文章は冗長であり、見やすさを犠牲にしている。むしろ読みにくいことがわたしたちの文章の特徴である、と言ってしまってもいいかもしれず、その分かりにくさはともすれば、わたしたちが文章の品格と呼んでいるものと一致するかもしれない。現に品がないとみなされがちな文章、たとえば知能の低い現代の陰謀論者が選挙公報のうえで展開する、たっぷりの余白に大きな文字で短く書かれた「光」だとか「闇」は、正確性と網羅性に対する一切の配慮を欠いているがゆえに品がないとされている。

 

そして現実的には大した意味のない、正確性と網羅性に対するわたしたちの異様な執着は、ある一点を超えればあまりの冗長性のために、むしろ面白おかしいものになってくる。

 

冗長性が振り切れたなら、もはやそれは表現だと言えよう。言い切ることへの恐怖は笑いへと昇華し、あるいはあえて言い切ることこそが背徳的な蛮勇とみなされ、しこうしてわたしたちは、社交性の先に面白さを獲得する。正確性と網羅性というつまらない制約、表現することとは正反対にいたはずの社会生活の知恵、わたしたちが自然に用いることのできる言語は、かくして逆にわたしたちの持てるコンテキストとなるわけである。