積まれたルールブック

カードゲームのルールは膨大である。たとえば、『マジック・ザ・ギャザリング』の公式によれば、ルールブックには電話帳のような厚みがあるらしい。おそらくルール上の問題は、あらたなメカニズムが追加されるたびに発生していて、これまでのメカニズムとの整合性のためには、それくらいしないといけないのだろう。

 

じっさい、トッププレイヤーであっても、ルールを厳密に理解しているひとはすくないようだ。だから大会には、ジャッジと呼ばれるルールを扱う専門のひとがいて、ルール上困ったことがあれば、そのひとを呼んで解決したりする。

 

わたしはまったくトッププレイヤーなどではないが、それでも驚くべきことに、ほとんどの場合、ゲームを問題なくプレイできる。もちろん、わたしが電話帳の中身を理解しているわけではない。ゲームは、電話帳を読まなくてもプレイできるようにできているのだ。いいかえれば、カードゲームのルールを知っているとは、膨大なルール文章のすべてを把握しているという意味ではなく、それが大まかに示すところをあいまいに感じ取っているという意味だ。

 

さて、数学の世界の話をしよう。わたしたちの多くは、ルール、すなわち定義の厳密な理解なしには、数学をいとなむことなどできないと強く信じている。カードゲームがルールを知らない前提でまわっている一方で、数学はルールを知っている前提でまわっているのだ。

 

もちろん、数学のルールは、カードゲームのルールほどこんがらがっていない。電話帳のような厚みの数学書こそいくらでもあるが、その中身はカードゲームのルールブックのように、定義で埋め尽くされているわけではない。書かれているのは、定義をつかってなにができるかだ。だから、ひとつひとつのルールの相対的な重要性は、カードゲームとはくらべものにはならない。

 

だがそれでもわたしは、数学をあいまいに感じとって、分かったことにしてもよいと思う。なぜなら、なにかとなにかをくみあわせてあたらしいものを作るための第一歩は、おそらく直感だからだ。数学を直感で扱うと問題が起きるとひとは言うが、それで問題が起こったら、そのときはじめて、ルールブックを読み返せばよい。