あいまいさの権利

数学において、なにかを読んで理解するとはなかなか大変な作業だ。どこになにが書いてあるのかを把握するだけでも頭がこんがらがってくるのに、そのうえで証明の詳細を一字一句追いかけて、一箇所も抜け漏れがないことをチェックせねばならない。そこには一切の論理の瑕疵も、計算ミスも許されない。数学において、完璧でない証明はなにもしていないに等しいからだ。

 

本当のところはそれでもまだ足りない。証明を追ったあとにすべき作業は、著者がどんなことを考えてこんな証明をしたのかをいちいち汲み取ってやらなければならない。この補題が成り立つことは分かった、けれどそれはいったいなにを意味するのか。こんな変数を考えると上手くいくということは分かった、だがいったいどうして、そんなものを考えたい気持ちになるのか。よりよい理解とはいつも、そういうことを地道に、ひとつずつ問うていった先に立ち現れる。

 

そういう意味で数学とはある程度、あいまいな分野だ。厳密な議論が通用するのはあくまで、書かれた証明を追いかけ、その正しさを検証するところまで。そこから先は個人の感性の、言い換えれば数学的センスの問題に変化するのだ。数学を正確に記述する形式的な手法は、センスの領域まで到達するまえにわたしたちを降ろしてしまう。目の前の論文がいったい何者だったのか、その肖像は読者自身の手で構築していくしかない。

 

しかしながら、それでも。数学とはやはり、厳密で機械的な分野ではあるわけだ。

 

すくなくとも、他のあらゆる分野に比べれば、ずっと。

 

数学の証明を追うのに、真なる理解は必要ない。数学は厳密に書かれているから、証明の正誤を判定するだけなら、単に議論を追いかければいい。目の前の証明を改変して自分が使いたいかたちへと変形するくらいのことなら、理解などというあいまいなものに頼らなくたって、機械的にできる。そんな甘い理解でも、論文を書くくらいならできてしまう。

 

それは間違いなく、数学という分野のいい点だろう。理解などなくとも、議論さえ正しければそれでいい。証明の裏には基本的に理解があるとはいえ、理解などという定義不能なものは、数学のルールの外にあるのだ。だからもし証明を証明のまま暗記するだけで、他のなにかに機械的に適用できるひとがいるなら、それは申し分のない数学の才能である。

 

もっともわたしにはおそらく、そんなことはできない。証明を証明として読んで、感覚を経由せずに「理解する」ことはできない。証明を改変して別の証明を得ることはできるけれど、それは理解を経由した場合と比べて、かなり苦しい作業になる。

 

けれども。わたしにとっての理解とは、あくまでわたし個人の感覚に過ぎない。わたし以外の人間は、わたしには分からない方法で、わたしには共感できない理解を得ている。めいめいの方法で、厳密な形式をなにか別の、うまく使える形へと変換している。

 

そしてその形が違えども、最終的に得られる議論は不思議なことに、どれも厳密で検証可能なのだ。