年始と非日常と日常

 年始という時間のことを、わたしはあまり好きではない。

 

 一番の理由はテレビがついていることだ。内容に興味がある場合を除いて、テレビがついているのは好きではない。内容に興味があるのはビッグニュースか野球中継くらいであり、したがって野球がオフシーズンであるいま、面白いことはあまりない。

 

 テレビは消せばいいだろうという指摘はもっともに見える。だがそう言ってくる人間は、残念ながらこの自然のことをなにひとつ分かっていない、と言わざるを得ない。年始のテレビというのは、だれが意図したわけではなくとも、勝手についているものなのだ。それは運動方程式光速度不変の原理などと並ぶ、自然界の絶対法則である。抗おうとしたって、人間が太刀打ちできるようなものではない。

 

 見なければいいじゃないか、という指摘ももっともだ。だがこれもまた、テレビというものの実力を見誤っている。どういう魔術を使っているのか知らないがあれは、ついているとつい視線を奪われてしまうようにできている。テロップの文字は見てしまうし、芸人のボケは聞いてしまう。

 

 おまけに番組というのはよくできていて、途中から見ても内容が分かってしまう。だから集中して見ようとしなくても、どこからでも入れてしまう。ほんとうは学会発表こそそのようにあってほしいものだが、残念なことに真逆である。

 

 テレビのなかでもとくに年始の雰囲気は苦手だ。

 

 どこが苦手なのかは何度もことばにしようとして失敗しているのだが、あのいわゆる、抑揚やら緊張と解放のループやらからかけ離れた、なにか実体のないものを頭を空っぽにしてめでたがっているような単調な雰囲気を、わたしは生理的に受け付けないのだろう。

 

 あるいは、こうかもしれない。非日常をうたっているわりに結局、テレビ局は毎年同じルーティーンを繰り返す。それはある意味での伝統であり、特別感よりむしろ安心感を与えるものであるはずなのに、やつらはそれを特番とか言って、非日常のほうを前面に押してくる。どうあがいても日常の一部にしかなりえないそれらを、非日常の象徴のように扱わなければならないという圧迫感。クッション材のなかに詰め込まれたかのようなその感覚に、わたしはやられているのかもしれない。

 

 とはいえそういう類のものはほかにもあるような気がする。それらも同様に受け入れないのか、あるいは年始だから受け入れられないのかに関しては、正直よくわからない。わからないがとにかく年始は苦手であり、こうやってパソコンに向かうことで、本物の日常に逃げてきている。