年末の終わり

 こんな言いかたはなかなかしないだろうが、年末も今日で終わりである。

 

 明日からは年始がはじまる。この言いかたも普通はしない。普通に言えば、明日から新年だ、ということになる。楽しみにするのはあくまで年明けという瞬間であって、年始という期間ではない。

 

 理由は単純である。年末と年始にこれといった質の違いはないからだ。まず物理的に言えば、年始とは年末のあとに自動的かつシームレスに訪れる、連続した時間である。人類社会的な意味で言っても、どちらも長期休暇の一部であるのだから、仕事を休んでゆっくりと楽ができるという意味で、さしたる違いはないわけだ。

 

 しかしながら、そこに暦の切れ目があるという意味で言えば、年末と年始はまったく違う時間でもある。

 

 年末年始とは年越しの瞬間を中心に構築されている。年末はその準備期間であり、年始とは年を越した瞬間の無から、日常生活へと戻っていくための準備期間である。すくなくともいま、世の中がその瞬間に向けて収斂していっているのを、わたしは感じることができる。

 

 たとえば大掃除という習慣があるのは、身近な面倒事をすべて片づけておくことで年を越す瞬間に集中できるようにするためだ。最近だとふるさと納税というものがあって、年を越した瞬間に文字通り枠がリセットされてしまうから、これもまた年末らしい風物詩である。

 

 今年もあと四時間ほどで終わる。だからといってなにが起こるわけでもない。この四時間を雑に過ごしたところで、来年がはじまらないわけではない。だがそれでも、この人工的なタイムリミットまでの時間と反比例して、わたしたちはその時間の重みを感じさせられてしまうわけである。

 

 四時間、などとわざわざ言うのは、今日が大晦日だからだ。昨日の今頃、そんなタイムリミットは意識しなかった。あと二十八時間で来年だ、などとは言わなかった。

 

 追われる必要はないはずの期限に追われ、無意識に濃密に意識させられてしまっている時間。年末も最終版になって、年末というものの定義が分かってきた気がする。

 

 この時間が好きなわけではない。追われなくていいものに追われるのは不快である。どうせ追われるなら、論文の締切とかそういう、身のあるものに追われていたい。

 

 年末も今日で終わりである。この言いかたをしないのは、年末というものの濃度は上がっていく一方だからである。いまこの瞬間、年末はより濃い年末になっており、これから先の四時間もそうなるだろう。今年体験した中で一番はっきりと年末である瞬間がいまこの瞬間なのだから、わざわざ郷愁にひたる必要はない。

 

 年越しの瞬間、年末は突如として終わる。そうして年始がはじまる。年末と違って、年始に明確な終わりはない。けれども年始とは薄まっていくものであるから、年末と違って、過去を惜しむことのできる時間である。