無気力の比喩

 やる気が出ない。

 

 心臓と肺と胃のまわりに、ジュラルミンの鎧が取りついたかのような感覚だ。その素材は軽いけれども丈夫で、ただ立ち上がって歩くだけなら問題はないが、それ以上のことをしようとした途端、がっちりとした存在感でもってわたしを締め付け始める。それは明確な上限であり、日常生活の邪魔こそしないが、壊そうとしても簡単には壊れない。

 

 どうにかしてこじあけようにも、とっかかりがつかめない。一見して簡素に見えるその構造は、そのまま弱点が少ないということを意味しているのだ。いくつか存在する一般的な弱点――すなわち、溶接痕やねじ穴にたとえられる、人間の心の一般的な特性――は、どれもしっかりと補強されている。素人の精神的工夫や無造作なことばの力では、その補強を乗り超えることはできない。

 

 心の鎧は軽く、いかに強いと言っても限界がある。だからおそらくは、強大で粗雑なな原動力を与えてやりさえすれば、その優秀な合金製の物体を破壊することはできるだろう。しかし忘れてはならないのは、ひとりの人間の五臓六腑がその中に包まれている、ということだ。ジュラルミンを粉砕する強力な力はまず間違いなく、その内容物を潰滅させてしまう。

 

 細工するしか方法はないのに、小細工は効きそうにない。そのようなもどかしさの中に、わたしは生きている。

 

 だがしかし、鎧とは同時に、内容物を守るものでもある。

 

 直面するのが怖いなにかがあるとしよう。いや、だれにでもそういうことはあるのだ。だがいま、それをわたしは、すくなくとも直接は、見ることがない。足枷でもあるはずの鎧が、今度は守ってくれるからだ。

 

 ジュラルミンは飛行機や野球のバットに使われる素材である。時速百六十キロで飛んでくるボールを打ち返したり、高度一万メートルの空を亜音速で切り裂いてなお平気でいられる素材が、恐怖程度の危険に負けるわけがない。

 

 あるいは別の危険も、鎧が守ってくれる。外部からではない、内なる獣の危険から。

 

 いかにしてかはわからないが、鎧が外せたとしよう。わたしは気力に満ち溢れ、そしてなにをしでかすか分からない。栄光の未来に向かってノンストップで駆け始めるかもしれないし、全速力の助走をつけてビルの屋上から飛び立つかもしれない。守られた内臓のなかから見れば、どちらの困難さも大差ないことに思える。

 

 わたしはいま守られており、この上なく安全である。わたしはなにもしでかさないから。そしていま、その状態は、ある種望ましいことにも見える。