振り返り:批判的態度

なにかを続けること、そのための方法とはなにか。

 

一番に挙げられる答えは、意志の力だろう。辞めたいと思ったときに、辞めないだけの意志。続けることに伴う様々な困難を、気まぐれを、すべて乗り越えるための強靭な意志。なによりも、己に打ち克つための意志。

 

だがその答えは、おそらく正しくない。

 

……というのは、これまで述べてきた通りだ。なにかがある程度の期間続いて、習慣になったとき。いつの間にかそれは、辞めたくても辞められないようになっている。さまざまな困難に打ち克てる最強の力は、意志ではなく惰性だ。

 

続けるとは、決して困難なことではない。

 

なぜ山に登るのか、と聞かれて、山があるからと答えた登山家。山に登るのに理由は必要ない……ととらえられるそのことばは、おそらく文字通り、理屈の不在を示すものだろう。正当な理由が必要なのはむしろ、登らないこと。身に染みついた習慣とは、異なる行動をとることだ。

 

登り続けること。優柔不断と非合理主義に、目をつぶり続けること。継続とは多かれ少なかれ、思考停止の要素をはらんでいる。

 

だが。ここ数日の結論は、それでも、と続く。

 

続ける理由が、優柔不断だったとして。辞める意思が固まらないばかりに、非合理な習慣を捨てられないのだとして。それでも、続けるという選択は無条件に肯定される。

 

続けただけで偉い。世の中は、そういうふうにできている。

 

続けた結果、なにが待っているのか。自分のなにが向上したのか、あるいは世界になにを遺したのか。そんなことはどうでもいい。試したことすら、なくてもいい。ただ無心に、無欲に、なにかを続けたという事実だけで、すでにかけがえのない……

 

……こっほん。

 

そろそろ現実を見ようか。

 

わたしは合理主義者だ。すくなくとも、そうあろうと思っている。あろうと思うだけでは合理主義者とは呼べない……のはたしかだが、あろうとすることじたいは合理的な態度だろう。だから、目の前の非合理を無視するわけにはいかない。

 

「世の中ではそうなっている」――合理主義者に言わせれば、その種の理屈はまったく理屈ではない。思考停止として、忌避するべき説明。論理的でない論理を見かけたら、わたしたちは何よりもまず、疑うことから始めなければならない。

 

……続けることが偉いということ。それは単なる、自己正当化に過ぎないのではないですか、と。無駄なことを続けた誰かが、無駄を認めたくないあまりに、破綻した論理を惨めに振り回しているだけではないのですか、と。

 

というわけで。

 

明日からは、わたしが書き続けてきたこの日記を、批判的にとらえてみよう。