年末 ②

 正月が明けたことになる正確な日程はひとによって違う。けっこう多いのは、三日までが正月で四日からは通常営業、というパターンである。あるいは四日か五日まで続くパターンもあるし、正月関連のイベントが全部終わるまでが正月だとすれば、七日の七草粥やたしか十一日だったはずの鏡開きまでが正月になる。

 

 あるいは伝説のブラック研究室では、二日に休んでいると教授から、「正月は休むと聞きましたがもう二日だ、いつになったら研究室に来るのか」と連絡が来るらしい、という話を耳にしたことがある。恐ろしいことだが、正月とは一日だけだという文化もどこかにはあるらしい。

 

 まあ、正確な日付はどうでもいい。理解すべきことは、正月のはじまりこそ明確に定義されている一方、終わりはあいまいである、ということだ。正月は徐々にフェードアウトする。正月気分とやらが存在するなら、それはゆるやかに抜けていく。世の中は四日、五日とエンジンを温め、次第にもとの速度へと戻っていく。

 

 年末はその逆である。年末のはじまりに正確な決まりはない。今日はもう年末だとわたしは定義しているからもうエンジンを切っているが、そのいっぽう、明日も明後日も仕事があるひとがいる。大みそかまで仕事なひとはさすがに少ない。紅白歌合戦を見るか見ないかして年が終わるとき、特殊な仕事のひと以外はみな休みに入っている。

 

 物理的な時間に切れ目はない。きっと、年をまたいで落ち続けるりんごはあるだろう。その一瞬に体内物質の量は非連続に変化する、なんてこともありえない。だが年末が正月になるその瞬間が、わたしたちの認識に与える影響ははかり知れない。

 

 つい一週間前はわたしの誕生日だった。だが正月と誕生日は違う。正月とは、誕生日のように個人的なものではないからだ。

 

 世の中は切れ目を感じようとしている。ほかの一瞬と変わらないはずの、十二月三十一日の二十三時五十九分五十九秒九九九九の時間が、一月一日零時零分零秒になるその瞬間に特別な意味を与えてようとしている。そしてわたしたちはその運動に確実に流されている。まるでその瞬間を境にして、世の中の休止と始動の微分係数が、不連続なジャンプを迎えるかのように。

 

 エンジンの休止と始動。これらはべつの現象である。止めるにはブレーキをかけねばならず、動かすには動力を与えねばならない。したがって、年末と年始はまるきり真逆の期間である。

 

 これこそがきっと、年末という休みが特別であることの理由である。