年末の延長線

 年始がはじまった。

 

 昨日書いた通り、こんな言いかたは普通はしない。普通は、年が明けたと言う。年が明けたのだから、昨日というのは去年である。限りなく語弊のある言いかただが、事実なのだから仕方がない。年号というものの定義にはそういう非直感的なところがある。

 

 ではなぜそんな言いかたをするのか。それについては昨日書いた。つまり、去年書いた。年末年始とは年明けの瞬間を中心にして構成されるものであるから、注目するのは年始という時間の内容ではなく、年が明けたという事実そのものである、というわけである。

 

 そしてなぜ昨日も書いたことを繰り返すのかと言えば、これもまた年が明けたからである。

 

 年末年始とは通常、切り替えのための時間である。

 

 除夜の鐘を聞き、昨年のことを良いことも悪いこともひっくるめて過去に置いてくることで、また新たな新年のスタートを切る。そうやって多くを忘れたことにすることでわたしたちは、さまざまな感情がひとところに留まりつづけないようにしている。

 

 年末と年始がどこまでいっても連続した時間にすぎないということはみな分かっているし、年を越したからと言って年号以外のなにかが変わるなんてそんなことだれも信じてはいないけれど、それでもわたしたちは、この人工的な切れ目を重視する。重視してきた。伝統というものに対する意識の希薄化した現代においてなお、その目的について意識的かどうかさておき、年明けという風習はそのために残されている。

 

 そういう構図を見ると、なんだかすごく、反抗したくなる。

 

 昨日とおなじ内容をわたしは書く。そういうことはこれまでに幾度となくやってきている。日記を初めて二年九か月、書くことなどとうに尽きているから、そうでもしないとやっていられない。普段のわたしが、前日にすでに書いたことをあらためて書いていたとして、それはそれ以外に書くことが思いついていないか、あるいはまだ自分のことばに納得できていないかのどちらかであって、けっしてなにかに反抗しようとしているわけではない。

 

 けれどもいま、わたしには反抗の意志がある。年が変わった瞬間にすべてが不連続になるという、伝統と風習がつくりだした非科学的な幻想に、真っ向から刃向かってやりたいという欲求がある。

 

 そんなことをしてなんの意味があるのかは知らない。無駄にテレビがついていることを除けば、年末にも年始にも恨みはない。けれどやはり、なにか構図を見つければそれに反してみたいと思うのがわたしである。その幼稚な精神性は、年が変わった程度で変わるものではない。