悠久と破壊

 誕生日でも、いつもどおりに日は暮れる。

 

 子が生まれても親が死んでも、勤めていた会社が倒産して路頭に迷っても宝くじの一等を当てて働く必要がなくなっても、気象庁の予報通りに日はのぼる。雨は降るし、潮は満ちるし、電車は動くし、首都高速道路は渋滞する。

 

 なにが起こっても、変わらないことがある。それをひとは悠久と呼ぶ。

 

 変わらないことのなかにも序列がある。だれかが死んだくらいで電車は止まらないが、大きめの地震が起きたり線路が爆破されたり鉄道会社がストライキをはじめたり、あるいはとつぜん一夜にして沿線全部がゴーストタウンになってしまったりすれば、電車は止まる。大工事をして車線を増やしたり、石油の輸入が止まって日本にガソリンがなくなったりすれば、道路渋滞は解消する。

 

 潮は基本的に満ちて引く。その理由は月の引力であり、つまり地球に海と月の両方がある限り、満ち引きは続く。電車が止まるレベルの災害や戦争をもってしても、その力を止めることはできない。だが裏を返せば、海が全部蒸発するとか、小惑星かなにかに吹っ飛ばされたとかで地球に月がなくなるとかすれば、満ち引きは止まるということである。

 

 悠久とはしょせん、その程度のものでもある。

 

 悠久に序列があるならば、それを壊す力にも序列がある。

 

 それがどんなものなのかは想像するしかないにせよ、潮の満ち引きを止めるだけの力であれば、おそらく電車も止めるだろう。月が消滅するだけの衝撃に人類が耐えられるとは思えないし、たとえ耐えたところで、電車が切れ間なく動き続けるという社会構造を維持できるはずはない。満潮と電車の運行にはたしかに直接の関係はないが、スケールの暴力的な違いは、その関係の不在を乗り越えてゆく。

 

 さて、いまは年末である。

 

 年末とは破壊力のひとつだ。それはかなり弱い部類の破壊力であり、カレンダーを見れば予測できるくらいには日常的なものではあるが、それでも悠久のうちのいくつかを破壊することには間違いない。

 

 たとえばそれは、一週間というリズムを崩す。普段どれだけ土日を心待ちにしていようとも、年末年始の期間中に、今日が何曜日であるかということをはっきりと心に留めて生活しているやつはほとんどいないだろう。普段は当たり前のように存在しているものの一部は、この毎年かならず訪れる、予測可能で恒例行事化したイレギュラーによってすら壊されてしまうほどに、脆弱なものなのである。