年末 ①

 家に帰ってきた。

 

 国内なので時差はない。時差はないから時差ボケはしないが、出先特有の早起きの影響がある。さすがにこの時間に眠くはならないが、今日はもうやりきった感覚がある。

 

 年末と呼ぶかどうかあやしい時期に出発し、年末と言っていい時期に帰ってきた。この時期にそういうことをすると気分は切り替わる。つまり、完全に年末である。

 

 年末だからと言って諸々をサボる以外のなにかをするわけではない。かりに年末ではなかったとして、サボらないとも言っていない。どちらにせよ自室にこもってだいたいをだらだらと過ごし、たまにゲームをして、思い出したかのように研究をはじめて論文を書こうと試みるだけだ。けれどそんなわたしにも、年末気分というものは確実に存在するようなのである。

 

 ほかにやることもないし、その正体がなんなのかについて考えてみたい。

 

 一般に年末気分とは、休み続きという高揚感のことを指す。あるいは働かなくていいという安堵感かもしれない。どちらにせよとにかくそれは日頃の義務から解放されてゆっくり過ごすことができるという意味である。その事実が導く感情には個人差があるとはいえ。

 

 だが客観的に見て、それはわたしには当てはまらない。説明するまでもない。年末に限らず、年中だいたい休みだからだ。

 

 ではなんなのか、と考えて、客観視なんてくそくらえだ、という叫びが突然、喉を突き破って登ってくる。

 

 年末気分とは客観的なものではない。気分なのだから、定義上主観的なものなのだ。だからいかにわたしが普段休みまくっているからと言って、年末が休みで嬉しいという感情が嘘になるわけではない。めちゃくちゃに身勝手で罰当たりだが、主観とはそういうものだ。

 

 そしてなぜ嬉しいのかということを突き詰めると、この正月というきわめて人工的で無意味な切れ目を、そういう節目を重視しないことを信条にしているはずのわたしもまだ、無意識にありがたがってしまっているということに思い至る。

 

 いまは年末である。研究なんてものはいつやってもいいのだから、通常、年の最後までやるべきことが詰まっているなんていうことはありえない。わたしはもちろん例外ではなく、これから大晦日までなにもしなかったところでだれも困らないし、とがめるひとだっていない。

 

 もちろん、それは長くは続かない。いや、続けることはできなくもないが、わたし自身が許さない。二週間か三週間かすればわたしは論文をまた書き始めるだろう。一ヶ月に満たない期間は短い。

 

 けれどもそこには、正月という節目が挟まっている。このことが指す意味が、存外に大きく見えてくる。