悪分類 ④

 勧善懲悪ものを読んだ読者が、その主人公の行動原理になっている盲目的で思慮の浅い教条的な正義よりもむしろ、動機と作戦と理想と執念を兼ね備えた巨大な悪役のほうに共感し、若干の良心の呵責を覚えつつも、心のうちでははっきりと悪の勝利を願う。悪役がそのように魅力的に書かれている場合、読者にとってそうなるのは避けがたい態度だ。わたしは実際に、そのような受容者のひとりである。

 

 そういう受け取り手がたくさんいるだろうことに、まさか作者が気づいていないわけがあるまい。単純な勧善懲悪を書きたければもっと、擁護する気もないような悪を書けばいいのだ。つまり作者は悪役をわざと魅力的に描くことを通して、勧善懲悪ではないなんらかのストーリーを伝えようとしている、と考えられる。話の筋が、正義の勝利というベタなテンプレートにのっとっていたとしても、そんなことは関係ない。

 

 そう考えるのは、いささか考え過ぎだろうか?

 

 もちろんこうは考えられる。作者は、キャラクターを描くなら、それをじゅうぶん魅力的にせずにはいられない性質だった。だから全体の構成というお約束を乱し、一部の読者には勝利が必ずしも単純な勝利として伝わらないかもしれないというリスクを冒してでも、悪を魅力的に書いてしまった。それは純粋に作者の勇み足であって、それ以上のなにか、隠された意図のあるようなものではない。

 

 だがこうも考えられるだろう。作者も本当のところはまた、悪の勝利を望んでいたのだと。

 

 悪役は過激な主張をし、そのための行動を取る。だがそれはほんらい作者の思想であって、力と知性と金と行動力と運と機会があれば、ぜひとも作者自身がやりたい行動であったのだ。それが現実的にかなわないことを知っている作者はその異常思想をだれかに話したくて仕方がなかったが、普通に話すのにはあまりに問題のある思想なので、作中の悪役の口を借りた。現実世界を破壊するかわりに、架空の世界を作って、破壊しようと試みた。

 

 そしてだがしかし、ほんとうに悪を勝たせてしまうのは露骨すぎるから、あくまで物語としてはテンプレートに沿った勧善懲悪ものだということにして、本当に伝えたかった思想は、それに共鳴してくれる一部の人間だけに伝わればいい、ということでバランスを取った。

 

 それが事実かどうかは訊ねてみなければわかるまい。いや、作者に訊ねたところで、親しくないうちは、きっとノーだと言うだろう。だから魅力的すぎる悪が、どれくらいの割合で作者自身の理想であるのかは、結局は闇の中だということになる。