乗換失敗

 今日はなんと、実際に今日起こったことについて話すことにしよう。この日記では相当にめずらしいことだが、どうやら日記とは本来そういうものらしいから、だれも文句を言うことはできまい。

 

 今日は大学に行っていた。帰り道、尿意を催したので、乗換駅でトイレに入った。用を足し、トイレから出てきたわたしは、さっき上がってきたばかりのホームに降り、最初に来た電車に乗った。大学の方面へと向かう電車である。

 

 わざとこんなことをしたわけではない。完全に無意識で、わたしはもときた道を引き返していたのだ。自分が間違えたことには一駅で気づいた。車内放送がつい先ほど通過したはずの次の駅を告げており、そこでわたしは、車両内の雰囲気が思っていたものと違うことに勘づき、すぐになにが起こったのかを理解した。

 

 またやってしまった、と思った。そう、この手の経験は、一度や二度ではないのである。

 

 電車の乗り換えには不思議な魔力がある。なんの力かと言われれば難しいがさしずめ、乗り換えるという行為そのものを行為者に意識させない能力、といったところか。トイレを出て向かう方向を決め、エスカレーターに乗ってしばらく待ってホームに出、次に来た電車を認識し、開いたドアからひとが降りきるのを待って乗り込むという一連の動作が、その複雑性、多段階性にかかわらず、なぜだか意識にのぼらない。その過程で見る光景のなにもかもが明確に間違っており、いたる場所にある間違いの証拠にいたる瞬間に接しているはずなのにもかかわらず、なぜだか電車に乗り込むまで、その明白さに気づかない。ともすれば、乗った後ですらも。

 

 どうしてこれほどまでに、乗換とは透明なのだろう。人間とはこれほどまでに複合的な動作を、無意識のうちに行えるものなのだろうか。そう考えるとなんだか、自分がゾンビにでもなったような気がしてくる。身体が腐って自我を失い、だがそれでも生前の行動パターンに従って、歩き、電車に乗り、通勤するゾンビの群れの一員。

 

 無意識のうちに乗換を行い、結果として失敗する。これはわたしだけに起こる現象だろうか。わたしはこの手の話をひとにするのを恥ずかしがる性質ではないから、何度かこの話をしたことがあるのだが、いまのところ相手の反応は芳しくない。「わたしも!」とか「分かる~~!!」とか、そういう反応をわたしは期待しているのだが、これまでにそうなったことはないから、面白くない。