誕生

 だからといってなにが起こるわけでもないが、誕生日である。

 

 二十七歳になった。

 

 二十七という数にとくに意味はない。これが七歳や八歳だったらこの日の特別感に酔いしれただろうし、二十や三十や八十だったらなにかしらの節目になったかもしれないが、今回は二十七である。とくになんていうことはない。

 

 二十七ということは、誕生日はもう二十七回目だということだ。一般論として、人生で何十回と経験してきているイベントに特別感はない。

 

 だから今日がなにか特別な日であってほしいという想いはないし、特別ななにかをしたいという希望もないし、今日がなんの変哲もないただの一日であるということを、わざわざ不条理に思ったりもしない。

 

 わざわざ自分に言い聞かせるまでもなく、今日はただの一日である。

 

 とはいえこのことを日記に書いている。なんの変哲もない一日なのだから、これまで書いてきた内容をただだらだらと続けても良かったはずだが、こうやって書いてアピールをしている。なぜかと聞かれれば特段の理由はない。とはいえ昨日までの内容だってとくに書き続けたいような内容ではなかったから、ある意味では特段の理由がないということがそのまま、書いている理由でもある。

 

 去年の今日の日記もこんな理由で書かれたのか、あるいはまったく別のことを書いたのかは、もう覚えていない。探せば簡単に分かるだろうが、そうするだけの動機もない。とりあえず分かるのは、誕生日についてこの日記に書くことのできた日が今回を含めて三回あったということだ。

 

 その権利を実際に行使したかどうかはきっとその日の気分による。今日はする気分だった。それだけだ。

 

 わたしはいま全力で予防線を張っている。

 

 誕生日とはめでたいものである。世の中ではそういうことになっている。

 

 だれかが誕生日だと聞けば内心に関わらずとりあえず祝っておくのが世の中のルールであり、祝われたほうもただ礼儀として、ありがとうと返す。誕生日はときにプレゼントを渡す、あるいはねだる口実として用いられる。誕生日なんてめでたくないから、と言ってそれらを断ることに法律上の問題はないが、風情には欠ける。

 

 わたしと同世代以上の人間ならきっと、もう誕生日に特段の感情はないだろう。あるいはもう少し上の世代なら、年齢が増えることを嫌がるかもしれない。誕生日をめぐるやりとりはそういう環境のなかで行われている。めでたいといいつつそれが真剣なおめでとうではないということ、ありがとうといいつつそれが本当の感謝ではないということを、すべて含意して成り立っている。

 

 そういうのがわたしは、二十七になってもまだ、ちょっぴり苦手である。