世界と一緒に立ち止まる

例のウイルスが世の中を変えた最初の半年間。緊急事態宣言が出たりマスクが配られたりしたあの時期、世界は停滞しているとわたしたちは信じていた。

 

目の前の世の中で起こっていることがまぎれもなく急激な変化であることをどこかでは認識しながらも、このすべてが終われば再び世の中は元通りになるのだと期待していた。あの時期に起こった、いや起こした変化を、わたしたちはあくまで一時的なものだと考えていたわけだ。これは現在を耐え忍ぶための応急処置であって、無事にすべてが済んだあとにはすべてのパッチを取り払い、中断していた世界を晴れて再開させるのだ、と。

 

停滞という考えは、世の中のすべてを先送りにする口実になる。目の前にある喫緊の問題に一時的に対処することに集中し、その後に待ち構えるものを直視しないことが正当化される。だからこそ逆説的に、わたしたちは暇だった。目の前の問題に最低限のパッチをあてたあとは、なにもする必要などないから。

 

そんな経験を、わたしたちはきっとたくさんしている。わたしが生まれてから社会が経験した現象としては、震災があのときと一番よく似ていた。わたしは南関東にいて、近くではたいした余震も起こらないのだけれど、それでも学校は休みだった。震災という目の前の問題は、たった数時間電車が止まっただけのわたしたちにさえ、身の回りの世界を停滞させることを許していた。そして目の前の震災に対し、わたしたちがすべきことがほとんどなにもない以上、わたしたちはすこぶる暇だった。

 

より卑近な例は締め切りの前だろう。わたしは計画性という名の前倒し病に罹患しており、締め切りが遠くても関係なく作業を進める習性がある。当然、締め切りとは全然無関係の時期にほとんどすべてを終わらせることになる。けれど残念なことに終わらせるのはほとんどすべてであって、すべてではない。もうほとんどできていると理解すると同時に、作業をやめてしまうのだ。そして残りは、締め切り前にやろうとする。

 

かくして締め切り前、わたしは喫緊の課題を抱えている。かくして、忙しいことになっている(どういう因果か知らないが、世の中は「締め切りが近いから忙しい」という言い訳が通用するようにできているのだ)。しかし実際の作業はほとんど終わっているから、全然忙しくない。けれどいまは緊急事態だから、締め切りが終わるまでは次のことに手を付けようという気にならない。

 

合理的に考えれば、それらは非効率な態度だ。世の中が停滞していようといまいと作業は進めるべきであって、進めないことが正当化されるとすればそれは、停滞という名の緊急事態が本当に緊急な場合だけだ。忙しくもないのに、なにもしないのはよくない。たとえ客観的に見て忙しくあるべき時期であっても、忙しくないものは忙しくないのだから。

 

まあ、これもまた人間のバグである。バグだと認識したうえで改善できないことも含めて、人間は人間なのだ。