治癒

 昨日は午前五時に寝て、十三時に起きた。ようやくの通常運転である。

 

 五時に寝る前は二十三時に起きた。その前に寝たのは十九時で、起きたのは七時、寝たのは三時。その前は午前十時、午前四時に起き、さらにその前は成田行きの国際線の中だったので、どのタイムゾーンを採用すればいいのかよく分からない。

 

 なにが言いたいかというと、時差ボケをしていた。

 

 普段からめちゃくちゃな生活をしているから時差ボケはしないのだと豪語していた時期もあったわたしだが、ボケてしまうのだから説得力がない。そもそもそう豪語していた時期によく行っていたのはヨーロッパや中東だったわけで、そんなほとんど時差のないところ(つまり、普段の怠惰な生活と変わらないリズムで生活できるところ)から帰ってきて平気だったからと言って、時差ボケ界のラスボスたるアメリカ旅行でこてんぱんにされないなんてことは、ぜんぜん保証されていないということを、わたしはまったく失念していたみたいだ。

 

 派手に時差ボケた時点でちょっとショックだが、より驚くべきことがある。睡眠時間をよく見てもらいたい。普段は十時間でも十二時間でも平気で寝続けられるわたしが、四時間や六時間で起きている。しかもそれは、眠くないのに無理やり寝たとか、寝付けないまま布団で粘っていたがついに耐えきれなくなったというわけではぜんぜんない。普段ではありえないことだが、ただ単に、すっきりと目が覚めていた。

 

 それこそ、わたしがこの世で一番分かり合えない人種だと思っている、「寝起きの頭がいちばんすっきりしている」とか主張する人間の言うことが、なんだかちょっと理解できてしまう気がするほどの経験だった。

 

 時差ボケというイベントは、終わりがはっきりとわかるイベントのようだ。今朝、まあ今朝と言っても正午は回っているから今日の昼、十三時に目覚めたときわたしは、十日くらいぶりによく知っている感覚に包まれていた。まるで、床に埋まった磁石に両肩の肩甲骨が引きつけられており、背中のくぼみが吸盤のように布団に張り付いて負の空気圧を作り出し、腰には木の板が差し込まれて曲がらないように固定されたような、毎朝のおなじみの感覚だ。これを感じたということは十分すぎるほど寝たということであり、目を開けるのがつらいということであり、布団の暑さを感じないということであり、起き上がってしばらくは頭がくらくらして行動できないということであり、そして特段の事情がなければ明日も同じ感覚にとらわれるということ、すなわち時差ボケが治ったということである。