別種の文章たち

日記をはじめてからのこの二年弱のあいだに、わたしはたくさんの文章を書いてきた。そのことはきっと、書くという行為に関するわたしのスキルを大いに引き上げてくれたことと信じている。そしてまた、よい文章にするためには何に気をつければよいのかということに関して、たくさんの示唆を与えてくれたようにも思う。

 

しかしながらわたしの身につけた能力は、たいして普遍的なものではなかったのかもしれない。この日記を書くという限られた行為の遂行においてわたしは成長を実感しているけれども、それだけかもしれないのだ。

 

わたしが文章を書くやりかたはいつも同じだ。わたしはいつも、わたしが感じたことを書こうとする。考えたことを書こうとする。そして書かれた文章を、わたしの心の中だけで成立する飛躍した主観的な論理に依存しないものにするために、論理を立てて行間を詰める。このようにして文章は、わたしが普段書いているような文章になる。

 

けれども文章とはけっして、それだけのためのものではない。自分が考えたことを表現する客観的な説明を用意するというわたしの用途は、文章という媒体を使ってできることのうちのごく一部に過ぎない。そして「文章力」と単に言ったときには、それはもっと広い、さまざまな用途の文章を書く能力を指し示している。

 

たとえば、だれかを説得する用途。自分たちの開発した製品を買ってもらおうとしたり、自分の好きな作品を誰かに読んでもらうために書く文章を、わたしはこれまで書いてこなかった。原因はもちろん、そんなものを書きたいと思ったためしがないからなのだが、やはりそういうものだって書けるに越したことはない。

 

ほかには、情緒的な文章。小説において、作者は意図的に読者の心を動かそうとする。楽しいシーンには読者を楽しい気分にする描写が必要だし、悲しいシーンには悲しいシーンなりの表現方法がある。けれどいまのわたしには、たぶんそれは書けない。なにを書けば読者の感情を揺さぶれるのか、その方法論をわたしは知らない。

 

できないのなら練習すればよい。今日のような文章をうじうじと書き続けるのは一旦やめにして、これまでやってこなかった練習に切り替えるべきだ。幸いなことにわたしは、わたしがこれまでなにをやってこなかったのかを把握している。いまの自分が書けない文章にはどういうものがあるのかを、わたしは理解しているつもりだ。

 

しかしながら。問題は、どうやってそれを練習するかという点にある。

 

わたしには売りたい製品はない。特定の作品をだれかに強く勧めたいという気持ちもない。読者の気持ちを揺さぶってみたいとは思うが、そういうシーンは事前にそれなりのストーリーを必要とする。それをわたしは思いつかない。

 

だから結局のところこれからも、わたしはこれまで通りの文章を書き続けるのだろう。それがまったくの無駄になるとは思わないけれど、総合的な文章力のためにはなにか、もうすこしいい方法が欲しいものである。