恥と言い訳

 また書くことがない。よくある話だ。よくある話だからここ一年くらいは、一度テーマを決めたら、それについて飽きるか語り尽くすか書いていて恥ずかしくなってくるかするまで書き続ける、という方針でなんとかこの場を延命してきた。

 

 ここしばらくは、フィクションの論理について書き続けていた。だが書き飽きてきた。語れることはおそらくまだあるだろうが、そうする気は失せてきた。そしてなにより、物語などほとんど書き上げたことのない自分がそんなものを語るなんておかしな話だ、という明らかな瑕疵について、見て見ぬふりをし続けるのが難しくなってきた。

 

 このテーマについて仰々しく語る資格は、最初から自分にはない。それは最初から分かっているので、それでも書くためには、なんらかの言い訳というか、薄っぺらなことばと折り合いをつける手段が必要だった。その手段がなんなのかということについては、そういえばまだここには書いていない。というわけでせっかくだし、それを公開してみることにしよう。

 

 わたしは理屈から入る人間だと、わたしは自分自身を評価している。だからなにかをはじめるなら、まずそこに存在する構造やら原則やら論理やらを噛み砕いて、自分なりに解釈してやる必要がある。

 

 だからわたしは、自分が物語を書くという作業の助けとして、物語というものの構造を分析した。自分が書くときに気を付けるべきことを言語化し、やるべきこととやるべきでないことのあいだに線を引き、見えているはずの罠にはまらないようにした。実際に書くときにその手の知見が役に立つのかどうかはやってみないと分からないが、まあ完全に不要だということはないだろう。

 

 ……というのが、一応の理由である。客観的に見てまっとうな理由であるかどうかはよく分からない。実際に執筆をしている人間から見れば、おそらく薄っぺらな論理に過ぎないことだろう。だがそこに客観性は必要ない。これはあくまで、それでも分析するということを自分自身に向けて正当化するために存在する理屈にすぎないからだ。

 

 そしてこの薄っぺらな理屈はその主観的な役割を十二分に果たし、フィクションの論理構成について書き続けるという行為が恥知らずであるという認識から、一か月ほどにわたってわたし自身を遠ざけ続けてくれた。現金な言いかたをすれば、一ヶ月分のネタを提供してくれた。そしてより高尚な言いかたをすれば、フィクションというものに関してわたしが持っている現在の認識の多くを言語化する勇気をくれた、ということになる。