かわいそうの比較 ④

わたし個人の感性の話をしよう。わざわざこんなことを書こうと思ったきっかけの話でもある。わたしの思う「かわいそう」が、おそらく世間一般で言われる「かわいそう」と、なんだかずれているらしいということだ。

 

わたしがもっともかわいそうだと思う死は、十歳やそこらの子供の死だ。八歳かもしれないし、十二歳かもしれないが、すくなくとも三歳や二十歳ではない。けっして大人とは呼べないが、だからといって子ども扱いしていればいいわけでもない、それくらいの年齢の子供の死だ。ひとの命の価値は、それくらいの年齢のときに最大値を迎えると、わたしは直感している。

 

もちろん理由付けもある。まったく客観的ではないし、ほかのどの説を否定できる理屈でもないが、構いはしないだろう。わたしが理由を与えたい対象は、あくまでわたし自身の主観。主観に過ぎないことに、客観性なんて求められてもどうしようもない。

 

理由はこんなところだ。かれらは死という概念を知っている。そしておそらく、死を実際に経験したことがない割には、よく理解している。死を経験していないのは大人だって同じだから、つまりかれらは死に関して、現世の人間が理解できる範囲で最高の理解をしている。

 

にもかかわらず、かれらは死を受け入れてはいないだろう。意識の永遠の断絶という終焉が自分に訪れるという恐怖と、うまく付き合う方法を知るのはまだ先だ。自分がいずれ死ぬということはかれらの中では知識であって、実感ではない。知識のもたらす暗闇を、かれらはきっと直視できていない。

 

だからこそ、十歳がいちばんかわいそうなのだ。死の瞬間、それが死であることをかれらは悟るだろう。そう気づかないほど、かれらは幼くはない。けれど目の前の死へと、かれらは準備できていないだろう。みずからの死を受け止められるほど、かれらは老練ではないわけだ。だからこそそこには、もっとも残酷な絶望が発生する。その絶望をこそ、わたしはかわいそうだと思うわけである。

 

……というのがわたしの、わたしなりの説明だ。わたしの主観を書いただけだからべつに同意してもらう必要はないし、してほしいわけでもない。

 

基本的に現代のこの国では、子供は小さいほど価値が大きい。現代に限った話かは知らないし、この国だけなのかを調べる気もないけれど、とにかくいまここではそういうことになっている。生まれた瞬間に価値は最大値を取り、あとはただ減衰する。生まれた翌日に死ぬことを流産と区別する感情はわたしには分からないけれど、それは文字通り、そう思うだけの感性がわたし個人にはないという意味だ。死という概念を知らない人間の死を、ほかとくらべて特別かわいそうだと感じる心が。