文句

 些細なことを世の中のせいにして文句を言うのは違う、という価値観で生きてきた。

 

 違う、というのがどういう意味なのかはなかなかことばにしがたい。品性に欠けると言ってしまえばそんな気もするし、ダサい、というほうが近いかもしれない。単純につまらない文句を聞きたくない、という感情でもあるだろうし、そのなかにはたぶん、そんなことを言って終える人生への憐みだって含まれているだろう。

 

 もしかすれば、わたしのこれもまた世の中への文句であるのかもしれない。つまり、声のデカいだけのやつが報われる世の中に腹が立つ、という意味での。それだけではないだろうと信じてはいるが、そういう部分もちょっとはあるんじゃないかと言われれば、否定できない。

 

 わたしはなにかを特別我慢しているつもりはない。そういう文句を本気で言いたい、と思う瞬間はとくにない。だが客観的に見れば、そういう文句をわたしは恐れているのかもしれない。わたしが無意識に耐えているらしきものを、そういう文句が明らかにするということを。

 

 そのつもりはないし、だれかにそう指摘されれば、わたしのことをろくに見ないで決めつけている、と思うことだろう。だが結局、客観性とはそういうことである。

 

 あるいは、政治的にはこうも言える。わたしは近頃の権利意識の増長に警鐘を鳴らしているのだ。物事を丸く収めるために必要なバランス、パーソナルスペースの狭さをかれらは侵害している、とかなんとか。

 

 もっともわたしはその「警鐘を鳴らす」という表現がいちばん嫌いだ。世の中の代弁者を気取りさえすれば自分の意見を絶対的な正義として扱ってよい、というこの文筆技術を憎んでいる。もうすこしおおざっぱに言えば、なんだか難しいことばを使うだけで自分が偉くなったような気分になるなんてどうかしていると思う。

 

 だがこうしている今、わたしは正義になっている。警鐘を鳴らすということに対して警鐘を鳴らしてしまっている。こういうことを語れば語るほど、わたしはわたしが快く思わない存在に近づいていくのだ。

 

 語るという行為の矛盾。語らないことでしか解消しえない矛盾。

 

 文句を言う相手がよりデリケートで、より生々しく生活にかかわってくるほど、その手の矛盾は強烈になる。生まれながらの権利だったりひととしての扱われかただったり、あるいはシンプルに家庭環境や金銭や社会階層だったりの話になれば、文句を言うのも苦しいし、文句に苦言を呈するのも難しい。

 

 その当然の帰結として、黙ることが正解になる。