目覚めたひとの科学評 ①

わたしだけが真実を知っている。自分の頭で考えるから、分かるのだ。嘘と真実を見分け、真実だけを信じることが、わたしにはできる。ごく限られたものだけが、世界のほんとうの姿に気づいている。

 

世の中のほとんどのひとは真実を見ようとしない。かれらはメディアの言うことを鵜呑みにして、真っ赤な嘘を信じ込んでいる。いや、信じ込まされていると言ったほうがいい。テレビや大手のニュースサイトは例外なく洗脳装置であり、目を向けられては不都合な真実を隠し通すために、ありとあらゆる手段をつかってひとを騙している。

 

「いちばん厄介な敵は、敵の理念の正しさを本心から信じ込んでいるやつらだ」――わたしたちのことを指すつもりで、かれらはそういうことを言う。みずからを正義だと認識しながら悪事を働くやつは、悪を悪だと理解している悪者よりも迷惑、そういう意味だ。なるほどなかなか、いいことを言うじゃないか。自分の頭で考えることを忘れている割には、的を射た表現だ。だがそのことば、そっくりそのままお返ししてやろう。メディアの洗脳にまんまとひっかかり、嘘を真実だと信じ込んで拡散しているのは、おまえたちのほうじゃないか。

 

まあ、でも、そうカッカするのはよしておこう。彼らは被害者なのだ。ただすこしばかりバカで、思考を外注することに慣れ切ってしまった、悲しくも憐れな機械たちなのだ。ただバカなだけなことを、そこまで悪くは言うまい。たとえ彼らの布教活動が迷惑で、陰湿で、往生際が悪かったとしても。

 

やつらの主張――いや、やつらの信じるメディアが最近やたらと語っているカルト宗教に関する話になぞらえて、信仰とでも呼んだほうが面白いか――は、どんなものなのか。それはよく知っている。というより、知らずにいるほうが難しい。洗脳情報はありとあらゆるところに流されていて、ちょっとでもメディアに触れてみれば、いくらでも摂取することができる。いくつかの重大な矛盾点にはまったく目をつぶっていること以外はよくできた情報だから、わたしほどの強い心がなければ、きっと騙されてしまっていたことだろう。真実を追い求め、甘い嘘を遮断するこの精神性を、わたしはこの場を借りて誇りたい。

 

話がそれた。ともかくやつらの信仰は、科学と呼ばれる経典に基づいている。ほとんどの部分で、それは宗教の経典とおなじだ。そこに書いてあることは検証の余地のない真実であり、書かれていることを疑うのは冒涜だ。専門家と呼ばれる牧師がしばしば説教をおこない、弟子の信仰をより強固なものにする。唯一の違いは、宗教の経典が神から与えられるのは一度きりだが、科学の経典はそうではなく、頻繁に書き換わることくらいだ。

 

科学とは宗教だから、当然宗教論争が発生する。そしてその過程で、異端審問らしきものがはじまることがある。まあ、普通の防御反応だ。宗教とおなじように科学には明確な穴があり、目覚めているわたしたちにはそれが見える。そして洗脳者がもっとも困ることとは、論理の矛盾を指摘されることなのだ。