文句 ②

 文句とは基本的に、つまらないものである。だから極力聞きたくない。聞きたくない相手に話をするのは嫌だから、言いたくもない。

 

 つまらない原因の半分はありきたりすぎるということだ。インターネットを漁っていれば、やれ上司に理不尽なことを言われただとか部下が協力的な態度を取らないだとか、夫が家事育児を手伝わないとか妻が小遣いをくれないとか、あるいは給料が安すぎるとか税金社会保険料その他が高すぎるとか、そういう聞き飽きた文句が腐るほど出てくる。というか、わざわざ漁らなくても、文句のほうから勝手にやってくる。

 

 けっしてかれらの不満が取るに足らないと言いたいわけではない。不満は持って当然である。かれらの言っていることは結構な確率で、それなりに正しい。だからわたしはこういうふうに予防線を張るべきである。

 

 ただ単に、聞きすぎて辟易してくるというだけである。そういうものには名前がついており、愚痴と言われている。

 

 つまらない原因の残りの半分では、非はむしろ文句を言う側にある。説明されている状況を普通に受け止めれば、相手が悪いという結論にはならない、というケースである。

 

 こういう文句もツイッターによくある。こちらもまた、文句のほうから勝手にやってくる。たいていそいつは袋叩きにされていて、わたしは世の中の常識というものの一端をその構図から知ることになる。さすがにここまでいくとだれも共感してくれないんだな、という反面教師的なかたちで、である。

 

 だがしかし、世の中にはごく少数、面白い文句というものが存在するのである。

 

 そしてそういう文句なら、わたしは聞きたいし、言いたいとも思う。

 

 とはいえ、だ。

 

 一般論として、面白さの正体を見抜くのは難しい。つまらなさの正体であれば、いままで挙げてきたように簡単に説明できるのだが。つまらなさの特徴を残らず列挙してそれを避ければ面白くなるかといえばそんなこともなく、むしろそれらの特徴のいくつかを完璧に含んでいるのになぜだか面白い文句も存在する。

 

 だから面白い文句を書くにはただ、面白い文句を書こうとするしかない。面白いと思った文句の雰囲気を追いかけるしかない。

 

 というわけでためしに書いてみた。一昨日の日記である。面白さの常として、自分でつくったなにかが面白いということを自分で確信するというのは不可能なわけだが、とりあえずものは試しである。面白い文句の要素を自分なりに分析し、それに従ってみたわけだが本当に面白く鳴っているのかはわからない。

 

 とりあえず、わたしはこういうふうに予防線を張っている。