一次元表現

結縄文字などの例外を除いて、わたしたちが扱っていることばはたいてい、二次元の対象に書きつけられてきた。粘土板も紙もスクリーンもみな二次元を表示するための媒体であることに変わりはなく、そのいちばんの用途はいつも、文字を書くことであった。

 

けれども書かれている媒体とは異なり、文字とは一次元的な対象である。もちろんこれにも例外はあるけれど、それにしたってだいたいどちらか一方向に向かって読むという点では一次元的である。つまりわたしたちは一次元のものをあらわすためにわざわざ二次元の様式を使っているのであり、純粋に情報論的な話をすれば、それはまごうことなき表現能力の無駄である。

 

だからわたしたちは、本来なら一次元の紙を使うべきである。本当に一次元のものなどこの世に存在しないと主張するひとには、本当に二次元のものだって存在しないのだが、とことわっておく。媒体が二次元であるということに甘えたのかわたしたちの文字には幅があり、文章が進む方向と垂直な方向にそれなりの高さを必要とするのだが、そんな些細な点は簡単に解決できよう。とにかく表現される内容が一次元である以上、文章は一次元的な情報であって、それを表現する媒体は当然一次元でなければならないというのは、しごくまっとうで当然の論理ではないか。

 

そのことはもしかすると、なぜ文章が一次元なのかということに想いを馳せると、なお分かりやすいのかもしれない。

 

簡単だ。時間が一次元だから、文章が空間に占める次元もまた一なのだ。文章とはつまるところことばの表現形式であり、ことばとは音の列であり、そして音の列とは、時間軸あるいは周波数軸だけを持つ一次元的な存在である。一次元のものは一次元で表記するべきであり、するのが自然であり、そしてされるべきである。

 

詭弁。

 

わたしたちは二次元を見ることができる。時間軸の助けを借りずとも、絵をぱっと見れば、そのあらわすものを理解できる。絵は文章より真に情報量が多く、文章と違って二次元でなければならないものであり、ふたたび情報論的に言えば、文章ではけっして表現できないものである。

 

そしてわたしたちは無謀にも、だがそれを表現しようとする。文章で絵を、絵で世界を。高次元に低次元を埋め込むだけならまだ無駄で済む、だが低次元に高次元を埋め込むことは不可能だ。文章とは表現能力に欠ける形態であり、音声以外のたいていのものを表記できず、だがそれでも、わたしたちの認識の根幹をなす機能である。

 

そして思うに、世の中の大抵のことをひとは、文章として表現してきた。

 

矛盾。

 

二次元の紙をほどいても、一次元にはならない。細い二次元ができるだけである。わたしたちは文章を使い、二次元を一次元で表現する。情報は必然的に落ちる、けれどもなるべく落とさないように試み、なぜだか成功する。

 

どうして毎度、こんなにうまくいくのか。わたしには分からないが、そういう疑問をわたしはほかに見たことがない。だからもしかすると、世界とは案外、一次元的にできているのかもしれない。