数学を使って数学をする ②

「数学をする」には、発言主の立場によっていろいろな意味が込められる。一般人を自称するには少々数学と仲を深めすぎてはいるけれども研究者ではまったくなかった七年前のわたしにとって、そのことばにはきっと、深い理論を追いかけるという意味が含まれていたのだろうか。

 

さておき。「数学を使う」のほうが意味するものも、また言語化しておかねばなるまい。といってもそれは「数学をする」ほど多義的な概念ではなく、とにかくなにかに数学の知識や論理を役立てていれば、数学を使っていることになる。

 

もっとも普通の例は、聞き飽きたような産業応用だ。たとえば世の中にはブラックショールズ方程式とかいうのがあって、金融のモデルで大活躍しているらしい。専門ではないのでよく知らないが、数学の理論をほかのなにかに応用するということはさかんに行われてはいるらしいし、なんだか世の中にはわたしが思うより、数学的に回っていることもあるらしい。知らないけど。

 

そういう例を挙げるとなんだか堅苦しくて、いまいちモチベーションに共感できなくて二の足を踏むけれども、「数学を使う」ことはそれ以外にもある。例えばペンシルパズルがそうで、深遠な数学的理論こそ用いられないだろうけれど、初等的な数学ならよく使う。たとえばなにかの個数を数えて偶数だとか奇数だとか、なにかとなにかを足してなにかと一致することから分かることがあるとか、あの業界にはそういう定跡がけっこうある。大学の関係者以外はそれを数学と呼ぶだろうから、パズルとはまごうこと無き数学の応用である。

 

それでは本題に戻ろう。数学を使って数学をする、とは、結局どういう意味だったのか。

 

「数学を使う」と「数学をする」に分けて考えてみれば、さしずめこういうことになる。初等的であれ高等的であれ、とにかく数学の知識や考え方をなんらかの役には立てたい。そしてその役立てる先は、数学の深淵な理論を理解することや、ゆくゆくは作り出すことであってほしい。なるほど分かりやすい、だがそこには穴がある。

 

そう、それは単に「数学をする」ということではないのか。「数学を使う」のは、「数学をする」ことの定義にすでに含まれているのではないか。数学を使わずに数学をすることはできない。数学の理論を建てる建材は、そもそも数学でしかありえない。

 

当時のわたしはその矛盾に気づかなかった。というか、それを矛盾とは思わなかったに違いない。定義がなければ矛盾はなく、当時のわたしは「する」「使う」のどちらも、ろくに定義してはいなかった。

 

そしていまわたしが与えた定義は、いま見れば正しい定義のようだけれど、当時のわたしはそれらの概念を、そのような意味では使っていなかったのだろう。