安全な暴言

こう書けばなんのことかは分かってもらえるだろうが、ひとが悪口をぶちまけているところは見ていて楽しい。特定の誰かへ向けた中傷ではなく、世の中のすべてに対する罵詈雑言ならなおさらだ。暴言の内容とは無関係に、とにかくすべてをバカにしつくしているひとの雄姿は、プリミティブに気持ちが良い。

 

普段なんとなく思っていたことや、思っていても言えなかったこと。だれもが真実だと認めているけれどあえてそうは言わないこと。そういうことを代弁してくれる存在という側面がかれらにはある。世の中を生きていくうえで必要な建前の殻に閉じこもるうちにひと知れず溜まっていっていた鬱憤を、爆発させてくれる力がある。

 

悪口の魅力とは基本的に、そういうふうに説明される。かれらは非道徳的な真実を語るのだ。かれらのことばが真実だからこそ、かれらは面白い。かれらのことばは普遍的なのだ。もしかれらのことばが斬新に聞こえるとすれば、それはその事実を語ることが世の中でどれだけタブー視されてきたのかを如実にあらわしているわけだ。

 

……けれど、本当にそうだろうか。面白い暴言とは本当に、口に出してはならないとされていることだけだっただろうか?

 

違う、とわたしは思う。

 

ステレオタイプな暴言というものが世の中にはある。例えば、アイドルを見て整形していると言う。SNS に湧いてくるある種のアカウントを、承認欲求の塊だと断罪する。これらはべつに、表では言えないような暴言ではない。こういうことを口にする権利は、正義に支配されたこの世の中にあっても、いまだけっして抑圧されてはいない。抑圧されていないのだから、わざわざだれかに代弁してもらうなんて面倒くさい手段に頼る必要もない。だれもが言及していることなのだから、斬新であるはずがない。

 

それでもわたしたちは、そんな暴言に快感を覚える。なにひとつ真新しいことを言わなければ、道徳的なタブーを犯そうとすらしない、いわば、安全な暴言。しかしながらそれでも、わたしたちは喜ぶ。悪口を言うひとは殴っても大丈夫な相手を、完全な安全圏から殴っているだけにすぎないと言うのに。

 

おそらく暴言の価値は、もっと原始的なところにある。前々から思っていたことを代弁してくれるだとか、そういう小難しいことはあくまで副次的なものだ。暴言で笑うとき、わたしたちはきっとこう思っている。だれかがだれかを攻撃しているのを見るのは、なににもまして、単純に気持ちが良いのだと。