非想定のあなたへ ④

 これを書き始める前、わたしは二週間同じことについて書き続けていた。

 

 そう聞けば悪くない。同じテーマで長く書き続けられるというのはいいことだし、書き続けたというのは事実である。すくなくとも、思い返して恥ずかしくなるようなことではない。

 

 けれどわたしはいま、自分の名前であれを書いたという事実が恥ずかしい。すくなくとも、ひとに見せびらかせるような文章ではない。できれば、真面目に読まれたくないとさえ思っている。

 

 というのも、あれはまごうことなき駄文である。同じ内容で書き続けた、というより、同じ内容を堂々巡りしていた、というほうが正しいからだ。

 

 こんな文章などだれも読んでいない、という認識は、こんなときに救いをくれる。

 

 読まれていれば恥ずかしい。読まれた結果、わたしがまるでツイッター情報商材アカウントのように、当たり前のことをさもものすごい事実を発見したかのように語る人間なのだと思われるのではないか、と思うとやるせない気持ちになる。だが読まれていないのであれば、そんな心配をする必要はない。わたしは好きなだけ、自分の名前で駄文を書けるのだ。

 

 自分の名前で駄文を書けるということが果たして良いことなのかどうかには議論の余地がある。だが書くということそのものが持つ力を考えれば、きっと良い側面だってあるだろう。

 

 だがそれならばわたしはなぜ、これほどまでに真面目に書き続けているのか。

 

 真面目と言っても文章は真面目ではない。ひとに伝える文章としてのクオリティは地に堕ちている。もっと真面目に構成を考えればまともになるのかは知らないし、真面目にやりさえすればまともな文章を作れるのかどうかも定かではないが、とにかく全力は出していない。

 

 だがテーマは真面目なつもりだ。そしてテーマにかんして真面目に考え、考えたことを書いているつもりでもある。もちろん長い時間をかけているわけではないが、うまくことばにならないから手軽な嘘で誤魔化そうとか、そういうことはしていない。だれも読んでいないのなら、後ろ指をさされる心配もないのに。

 

 いいや。もしかすれば、後ろ指をさされるかもしれないのだ。

 

 ここはきっとだれも読んでいない。すくなくとも最近、読まれているとは思えない。読んでいると連絡をくれるひともいない。そういうひとが存在したとして、わたしが喜ぶのかどうかはさておき。

 

 だが同時にここは、わたしを含めた全員にとって、読もうと思えば読める場所でもある。