科学にはつねに限界が付きまとう。
なにかの限度を示す法則が科学にはいくつかある。多くは物理法則である。その限界が知られていないか、すくなくとも広く信じられてはいなかった時代に、多くの自称科学者がそれに挑んだ。そしてことごとく失敗した。
そして科学はこれらの限界を避けるように構築される。不可能を追い求めるより、不可能なものは不可能だと潔く諦めて前に進むほうが、はるかに建設的だからだ。
このようにして不可能は、科学の方向性を規定する。正確には、科学が進むべきでない方向性を。
不可能性にはもうひとつの側面がある。
それこそが、科学と科学のように見えてそうでないものを峻別する作用である。簡単に言えば、だれかが新しいエネルギー技術を発明したと言い出したとき、それが永久機関であれば、科学はその詳細を見るまでもなく偽物だと断ずることができる、というわけである。なるほど、なかなかに便利な基準だ。
そしてそれらのうちの一部は、わたしたち科学の素人にも理解できるし、疑似科学の判別に使える基準になる。
ではフィクションの科学にも、この基準は採用できるだろうか。
もちろん、そのままではダメである。
サイエンス・フィクションに登場する技術はよく物理の普遍法則に反している。もっともよく出てくるのはおそらく超光速移動だ。なぜわざわざそんなものを持ち出さねばならないかと言えば理由は簡単で、宇宙はあまりに広すぎるから、移動に光のような鈍足を強いられていてはとうてい、物語を進められないからである。
ならばサイエンス・フィクションはまるきり物理の不可能性を無視し、科学の法則をないがしろにしているのか。
それもまた違う、というのがサイエンス・フィクションのサイエンスたるところであるようにわたしには見える。
というのも、サイエンス・フィクションが否応なく根本的な物理法則に反しなければならないときには、かならずそれらしき設定が設けられるからである。
もちろんそれは新たな科学法則ではない。ましてやその不可能性を真剣に破る方法に関する新たな科学的知見でもない。そんなものを提唱できるのは科学者だけだ。科学者が提唱して正気を疑われないかどうかはさておいて。
だがそこには、物理法則が存在するということの言明と、それを破るための新たな手段がこの世界には開発されたのだという描写が、たとえその詳細が話の本筋にほとんど関係なかったとしても、かならずなされているのである。