ファンタジーの正当化 ②

 サイエンス・フィクションに登場するギミックが、曲がりなりにも科学風の正当化を要求するのに対し、ファンタジーのギミックにはそういう制約はない。たとえば、魔法やそれに準ずるものはなんでも「魔法だ」といえば成立してしまう。登場人物のだれかが持っている能力があからさまに物理法則に反していたとして、そのことはだれも気にしないし、それが物理法則をどう歪めることで成立しうるのかをわざわざ説明する必要もない。そういう意味でファンタジーとはよく言えば自由、悪く言えばなんでもありである。

 

 とはいえなんでもありというのは、文字通りどんな展開でも受け入れてもらえる、という意味ではない。サイエンス・フィクションがサイエンス(のようなもの)を用いて読者を納得させるのと同じようなことを、ファンタジーもまたしなければならない。ありていに言えば、炎を扱う魔術師という設定の人物が土壇場で太陽に干渉するぶんには構わないが、とつぜん敵に説明もなく精神魔法攻撃を仕掛けたりしてはいけない、ということだ。

 

 さて。とはいえそれだけでは十分ではない。炎を扱う人間が太陽に干渉するぶんには構わない、とはいったものの、それは常日頃からやっていいようなことではない。そんなことをしては物語が成立しなくなってしまう。それでも設定に忠実でいよう、と、常日頃から太陽に干渉できる存在をテーマに物語を書くのであれば、それはむしろサイエンス・フィクションのほうに分類されるものになってしまう。

 

 というわけで。その手のハイファンタジーでは、ギミックの使用場面に制約を加える必要がある。つまり、だれかがなにかをできるからといって、作者は常にそうさせられるわけではない、というわけだ。それは物語内のあらゆる役回りに適用されることがらであり、たとえ勝利のためには手段を選ばない悪役であっても、なにをしてもいいわけではないという制約は適用されなければならない。サイエンス・フィクションにおいて科学そのものの持つ限界に任せていることを、展開に任せるわけだ。

 

 難しいのはおそらく、制約はただ加えればいいわけではないということだろう。展開上の都合以外の理由もないのにできることをやらないキャラクターはただの馬鹿であり、そんな人間ばかりが出てくるものをわたしたちは読みたくない。必然的に、できることをやらないことには理由が必要になる――そしてそれは、できることを普段やらない理由ではなく、普段はできないことがこのシーンでならできる、という方向性での理由付けとして現れてくる。