科学には限界がつきまとう。ではそれはそのまま、科学を用いた創作の限界としても機能しているだろうか。
ある意味ではイエスである。科学の限界をサイエンス・フィクションは無断で破ってはいけないからだ。
物語の展開上、たとえば宇宙船が光速を超えて動かなければつじつまが合わないとしよう。星々の距離は遠すぎるから、そういうことはよくある。だがそれを物語に登場させるという行為は、ただ「船が秒速二億キロメートルで発進した」と書くことだけによって実現されるものではないのである。
けれどももちろん、そこには抜け道がある。船を秒速二億キロメートルで発進させたければ、そうできる理由を設けてしまえばいいだけだ。だから作者はさまざまな新技術――亜空間航法やワームホールやその他小難しい名前の機械あるいは物理現象――を導入し、人間もうまいことをやれば光速を超えられる、ということにする。
たしかになにかを導入しなければならない。だがそれだけで超えられるのだから、科学の限界などちょろいものである。
そしてそうやって、新たななんらかを作り出して限界を超えるというやりかたは、ある意味では科学に内包される、科学的なものでもある。
自然が新しい現象を示せば、科学はそれを追認しなければならない。
天体観測の結果が地動説を正しいと証明したのと同じように、それがどれだけ、既存の学説と整合の取れないものであっても、だ。
サイエンス・フィクションはその点につけこむ。現代の科学では説明のつかない新現象や、新技術が開発されたことにする。そうすれば科学は揺らぐ。
世界を自由に設定できる身にとって、科学とはじつのところ、ほんのすこしの異常さえ与えてしまえば、たちまち勝手に根本から書き換えられてしまうものなのである。
こう考えれば、科学とは限界に縛られた硬派な堅物ではなく、むしろ過剰なほどに柔軟で都合の良すぎる観念である、とさえ言える。科学世界とは、造物主の意に従っていかようにも姿を変える世界である。
逆に言えば、現実の科学がいまとくに崩壊しているように見えないのは、ただ単にいまの科学に真っ向から反する現象や技術が世界のどこにも存在しないからだ、と言うことだってできるだろう。
そのように脆弱な科学という体系に、普遍なものはあるか。
あるはずだ。あるからサイエンス・フィクションというジャンルが成立している。なにがサイエンスでなにがそうでないかについてそれほど大きな議論を起こさずに、分野が成り立っている。
だがそれは簡単に破られてしまう特定の物理法則ではなく、より普遍的で、抽象的なところに宿っている。