科学の定義 ⑩

 ある現象を科学が解明したと呼んだり、ある技術を科学が実現したと呼ぶのは、それをその分野が認める粒度にまでじゅうぶんに細かい要素へと分解し、説明し構築しきったときだ。その性質が、科学というものを巨大なものにしている。

 

 いっぽうでサイエンス・フィクションは未知の科学を扱う。未知なのだから、それを解明したり実現したりすることは難しい。できてしまえばそれはもう、未知の科学ではない。

 

 歴史上、未知の科学が説明を得ることはある。未知の技術が開発されることもある。だからそういうことがあり得ないとは言わない。だがそれを起こすのは科学者の仕事だ。作家の仕事ではない。だからサイエンス・フィクションはつねに未知の科学を扱う。

 

 しかしながら解明されていない科学は、定義上科学ではない。科学が正当と認識する分解のプロセスをそれは経ていないから。それでもサイエンス・フィクションに描かれる科学を、わたしたちが科学だと思うのはどうしてだろうか。

 

 もちろん、なにかを科学だと認めるための粒度の閾値が、実際の科学に対するその閾値と比べて、だいぶ低いからである。

 

 低いと言ってもゼロではない。サイエンス・フィクションを読んでいるといつも、その中の科学技術はそれらしく説明されている。

 

 それらしいだけであって科学的な説明になっているわけではない。それは読者も百も承知である。繰り返すが、科学的に説明するのは科学者の仕事である。

 

 重要なのは、厳密な説明にはなっていないにもかかわらず、それでもいつも説明がなされるという事実のほうだ。そしてそれが、フィクションの科学が科学らしいと読者に思わせるための、ひとつの仕掛けとして機能しているということだ。

 

 説明にはなっていないとしても説明を試みるべきではある、と判断するという態度がそもそも、フィクションにおける「科学的」という概念のひとつの側面なのである。

 

 とりあえず子供だましの説明を聞き、分かったような分からないような気分になることで、わたしたちはその裏にしっかりとした体系の存在を感じ取る。たとえそんなものが最初から存在しなくても、作中の世界には存在するような気がしてくる。

 

 作家はフィクションの世界のすべてを書くわけではない。ならば科学の成り立ちについて、それが最初から存在しないのではなく、読者に分かる範囲だけを記述して詳細は省くことにしたのだ、と解釈するのはきっと、そんなに不自然なことではない。