締切と裁き

 トートロジーのようなものだろう。

 

 締切は遅いほうがいい。遅いほうがいろいろと自由が利く。それが是非やりたい作業の締切だったら、遅いほうが細部にまでこだわり抜けるし、その作業を楽しんでいられる。やりたくない作業の締切だったら、遅ければそのぶん先延ばしにできる。

 

 というふうに、シンプルに考えればなるのだが、実際はそうでもない。逆説。締切というものはむしろ、早いほうがよかったりもする。生きていればよく感じることである。

 

 論理的に不可解な事象である。つまりその原因は人間の非論理的な点、すなわち感情的な点に依拠している。

 

 非論理的なものを説明するというのは若干不可解なことではあるが、説明しよう。もうどこかで書いたことがある気はするが。

 

 大きな力によって屈服させられたい。締切を望む気持ちはそこから来ている。

 

 自由とは面倒くさいものである。だから巨大な不可能性に強制されて、自由を奪われてしまいたい。この場合の巨大な不可能性とは、締切を過ぎれば訂正が不可能であるという事実である。訂正の自由が失われるということである。

 

 訂正から自由になれば、ひとはそれを忘れることができる。最終版がどのような出来であろうが、それはもう、自分にはコントロール不能な事象だから、考えても仕方がない。考えても仕方がないというのが論理的な結論である。

 

 感情と論理は異なる。だが論理にはそれなりに感情を動かし、オーバーライドする力がある。

 

 言ってみれば、創造物は、締切を過ぎればもう、自分の創造物ではなくなる。自然現象のようななにかとして、ただそこに在るものになる。そこに在るということは、創造主にできることは、ただそれを観測するか、観測しないかを決めることだけだ。

 

 世界を創造して以降なににも干渉しないと決めた神は、きっとこんな気持ちだろうか。

 

 いや。違う。わたしたちと神との決定的な違いは、神はその気になれば干渉することができるという点にある。神はより大きな力によって屈服させられたりはしない。この世界に締切はない。神はつねに自由を背負っており、それゆえにこの世界を忘れることができない。

 

 つまり、かわいそうな存在である。

 

 わたしは裁きを待っている。裁きを迎えるにあたってひとは数々の緊張をする。裁きまでにわたしたちは行動を変えることができ、それはときに心象を変えるかもしれないから。わたしたちにとっての救いとは、良い裁きを受けることではなく、何歳を過ぎて以降の努力は一切考慮に入れませんよ、という、観測の締切である。