絵と御神体

 自分の嗜好を満足させてくれる絵がないから、絵を勉強して自給自足できるようにした。その手の話はつい数年前までれっきとした武勇伝であり、かれらはおのれの欲望にとことんまで忠実に従う実行力と強い意志のある人間として、完全なる崇敬の対象であった。

 

 いまももちろん、かれらは変わらず敬われる。定命には不可能とまで思われる意志を貫徹したかれらは、定命にとってみずからの理想の体現者である。とはいえ矛盾するようだがそれをやっている定命はたくさんいて、「だからわたしは絵を描き始めた」という話をかれらがするたびにその話は拡散され、現代の神話として定命の間で共有される。拡散された神話は定命のコンプレックスを刺激して、「わたしもこれくらい変態的な欲求を持てたらなぁ」などと、不必要で不毛な自己嫌悪に陥るものがあとを絶たない。

 

 さて。だが思うに、かれら神たちは絶滅危惧種である。というのもこの現代において、好みの絵を新たに求める人間がすることはきっと手書きの勉強ではなく、AI のプロンプトの研究だからだ。神とは往々にして変態的な欲求を持ち合わせ、その実現のためにはおよそコストパフォーマンスという概念のまったく通じない存在ではあるけれど、同時にまた欲望に対して合理的でもある。一刻も早い解決の求められる巨大な欲求は、非情かつ怜悧な貪欲さをもって、目標への最短距離を突き進む。

 

 そうして生まれる AI 絵描きを、もともとの神の一柱と区別するのは難しい。なぜならかれらは、神たちにみずから絵を描かせる原動力であった敬慕すべき欲求と、まったくおなじ熱量で活動を続けるからだ。わたしたちは変態であることを崇め、欲望の強さそのものを崇める。わたしたちの教義においてすべての欲求は無条件に尊いものであり、しかるに一匹の子羊が最新の技術を活用するかどうかという問題にどのような結論を下したのかというのは、あくまで儀式遂行上のほんの些細な差異に過ぎないのだ。そのことに現状の神がそれに態度を示そうとも、わたしたちの信仰対象はあくまで性癖そのものであるから、新しい神は絶対的に神であり続けるのだ。そして神を否定する論理を作ろうとすれば、たとえその論理の主がまた神であっても、同じ論理が同時にみずからの神性をも脅かしてしまうことになる。

 

 神にとって、目的とは達成を目指すものだ。目的に貪欲でなければそれは神ではない。そして貪欲さが合理性を、合理性が特定の結論を意味するのであれば、その結論こそが御神体の正体である。