やるべきことが大量にあるので、ツイッターを見ている

やるべきことが大量にあるので、ツイッターを見ている。ツイッターを閉じれば、もちろんユーチューブを見ている。国語の教科書にも載せられる、まごうことなき順接関係である。

 

亀の甲でもならべて運勢を占ってみたところ今日は作業をしないほうがいいと結論付けた、ということであればまだ、迷信に踊らされていると言って批判もできるだろう。けれどもあいにくのところわたしは文明的な人間なので、うちに亀甲はない。ないからといって近所の川かペットショップまで取りに行く気力もないし、かりにあったとして、占いの方法をググるだけの行動力もない。

 

書くとは別に必要なことではないから、やるべきことがあれば、当然書くことも増える。ひとがなにかを思いつくために、目の前にタスクがある状態とはこの上なく素晴らしい状態であり、なにもないときはたいてい、なにも思いつかずに終わる。

 

そうして思いつきたいものが思いつけるのなら文句はない。思いつきたいわけではないことでも思いつけるのならそれに越したことはないから、文句を言う筋合いもない。もちろんひととは文句を言う権利がないときに文句を言うものであり、したがってわたしも、目の前にあるいくつものタスクを即座に片づけてしまいたいと思っている。

 

そうして一念発起してすべてに手を付けると、類稀なる才能からわたしは余裕で締切を守り、しばらくするとタスクの存在しない、退屈無比な時間がはじまるわけである。

 

この繰り返し。人生とは、遠い締切とのチキンレース。チキンなわたしは圧勝し、それは同時にボロ負けである。

 

書くことはある。書くこと以外の締切があるからだ。書くこと以外の締切がなくなれば、書くこともなくなる。

 

わたしはいつも同じ話をしている。創造性などクソ喰らえだ。締切があり、したがって書くことがあり、だが書くことはコントロールできない。文章を生成する知能について、考えるのも書くのももうやめたい。だが書けないよりはましで、暇なときの自分が書くことに困る以上は、やめたいと文句を言う筋合いはない。筋合いがないからこそ、わたしは気兼ねなく文句が言える。

 

ああ、わたしのつまらなさが憎い。もう少し自然に、最初に目に入ってくるものが、べつのいろいろなものごとになってくれはしないか。

 

やるべきことが大量にあるので、ツイッターを見ている。ツイッターのひとはいつも同じ話をしている。かれらにもやるべきことが大量にあり、だから話すことがあり、かれらもそれをコントロールできない。

 

わたしたちはつねに、同じことを考える。世の中は単色で、つまらない。そして世に締切がある限り、その見飽きた光景の、わたしたちはつねに一員であり続ける。