締切の自由

遠くも近くもない締切を前にして、忙しい忙しいと言っている暇があったら、さっさと仕事に手を付けるべきだ。分かっちゃいるけどそうはできないことの代表格として語られるそれは、そうと分かっているので、普通にできる。

 

締切のない時間を前にして、暇だ暇だと言っている暇があったら、さっさとなにか次にやることを見つけて、手を付けるべきだ。分かっちゃいるけどそうはできないことの代表格として語られるそれは、そうはできないことの代表なので、できない。

 

ひとは締切のために動いているわけではないにせよ、締切があるとひとは動かざるを得ない。だから物事を進めるうえで締切というのはいちばん大切なものである。だれもが知っている事実であり、だれもがそれを正しいと感じており、実際に正しい。

 

人類の歴史がこのスピードで進んでいるのは間違いなく締切のおかげであり、たとえば人類が石器時代を抜け出したのは、農耕と締切を発明したからだと言われている。ギリシャをはじめとする古代文明は締切の厳密化のために暦を発明し、産業革命とそれにつづく労働者運動は締切の概念を市民に根付かせ、このインターネット時代のいちばんの功績は、秒単位の締切を世界中で共有することができるようになった点にある。締切がひとを動かし、動いたひとがまた別の締切を生み、こうして締切と労働は無限に続くスパイラルとして、世の中を無制限に加速してゆく。

 

そして人類がいまだ発展の道中にあるこの時代、締切とは帯に短したすきに長し、忙しいんだか忙しくないんだかいまいちよく分からない期間に設定されている。

 

わたしたちは計画を立てる必要があり、だが計画とは必ずしも、締切という概念と同一ではない。

 

なにかを終わらせる。締切とはそういう概念である。道中の経緯はまるきり無視して、ある日時にある結果を提出せよというのが締切の意味であり、だからその期間、わたしたちはほかになにをしていても許される。夏休みの宿題は最初にまとめて終わらせてもよければ最後に慌ててやってもよく、そんなことが可能だとすれば毎日コツコツ進めてもよいのだが、八月は三十一日しかないので、三十二日を作り出してはいけない。わたしたちには過程の自由があり、それはなかなか持て余す類の自由である。

 

締切は偉大だ。だが残念ながら、それに隷属できるようなものではない。締切が設定されたところでそれはわたしたちの行動まで規定するわけではなく、だからわたしたちは考えなければならない。粛々とことを進めるとはどういうことか。定義はわたしたちに丸投げされ、締切の日時は助けてくれない。

 

できればそれも決めてくれればいいのに、とはけっこう思う。まあ、それはそれで面倒だとも思うけれど。