対象の虚像

自分に対してだけは甘いひとがいるとわたしは知っている。具体例は挙げられない。

 

自分に都合のいいことだけを信じてそうでないことは聞き流す、そんな頑固なひとがいるとわたしは知っている。だれがそうなのかはよく知らない。

 

矛盾するふたつの論理の両方を同時に信奉し、その不整合を突かれると、それは特殊ケースじゃないかと言ってけむに巻く、そんな無責任なひとがいるとわたしは知っている。矛盾する二つの論理がなんなのか、わたしにはよく分からない。

 

他人の置かれた状況を無意識に自分と同じだと考え、無謀にも薄っぺらいアドバイスを試みて当然のごとく失敗し、だがそれを反省することはけっしてなく、みずからの親切心を反芻して悦に入る、そんな迷惑なひとがいるとわたしは知っている。そんなひとに会った記憶はないし、反省すべきことがなんなのかも具体的には分からない。

 

人間一般の性質に関してわかったようなことを言い、さも自分が賢いかのように見せかけているけれど、じつのところその性質とはそのひと自身の性質でしかない、そんな主語だけが大きくて、視野の狭いひとがいるとわたしは知っている。わたし以外にだれがそうなのか、わたしにはてんで見当もつかない。

 

一般論とはかくも信頼できないものである。それらは個別のなにかに端を発してはいるかもしれないが、抽象化と演繹を繰り返す過程で捨象され、最後には現実世界のなににも対応しない概念と化す。ものごとを抽象的にとらえればとらえるほど、例を挙げよというクエリにひとは答えられず、具体的な未知のなにかを生み出す能力は減衰し、結果として逆に、目の前で実際に起こっている現象をそれらしく説明することばかり上手になってゆく。

 

概念に名前を付けるのをわたしたちは得意にしている。だからこうして具体的ないっさいからかけ離れていってしまったひとたちを、あらわすことばが世の中にはある。浮世離れと呼ばれるその現象は、とてつもない空想を語ることではなく、現実に起こっているものごとに宙にでも浮いているかのような抽象的な説明を与えることによってのみ観測される。

 

わたしたちは創作者ではなく、地に足の着いた批評家ですらなく、だがわたしの理屈からすれば、批評家とはわたしたちのことかもしれない。

 

自由に批評せよと言われたとき、わたしたちの批評に対象はない。抽象と演繹から作り出した理屈上の幻影、創作物と呼ぶには曖昧過ぎる虚像、対象にとれば消えてしまう純粋な存在。わたしたちが浮世離れしているという言明はまた、浮世離れしたわたしたちという幻を扱い、だからわたしたちは、わたしたち自身について何も知らない。