無記憶連鎖文

 頭が動かない。

 

 まるで脳が、ユーザーから命令が与えられるまでいつまでも待ち続けているメッセージボックスになってしまったみたいに、発想がどこにも飛躍しない。

 

 普段はこんなではない。むしろ動きすぎて困るくらいだ。たとえば SNS やネット記事で見かけたひとつの単語や、他人の話に出現した些細な断片から、普段の脳は勝手に思考を連鎖させる。単語と単語、概念と概念の、わたしにさえよく分からないつながりをたどって、思考はいつの間にか明後日の方向に飛び火している。

 

 だがいまはそうではない。いまなら、学会発表だって聞ける気がする。というのも、わたしがひとの話を聞けない原因は間違いなく、脳が勝手に始めてしまう脈絡不明の演算のせいだからだ。

 

 まあ、ほんとうに学会の椅子に座ったら、きっとすぐに寝てしまうだろうけれど。

 

 それはいつも学会の席で体験しているような、だるくて暑苦しくて脱水症状のようで、意識を手放そうにも行先のないような苦悶の中での睡眠ではなく、快適な夢と無意識に包まれた本当の睡眠である。

 

 そう。つまりわたしは疲れている。疲れた頭は、勝手に想像を膨らませないらしい。

 

 思考が飛んで行かないというのはありがたいことだが、日記を書くうえではすこし困る。書くことを決めずに一千文字を書くには、何度も思考を飛躍させ、話を展開させていかなければならないが、疲れているとそうはできない。

 

 短期記憶の力も衰えているから、いまのわたしは、この文章の最初に書いた内容を全然思い出せない。思い出そうと努力するというクエリを脳が拒否する。もっとも内容なんて最初からなかったような気もするし、その場合、脳のリソースを食わないという意味で、拒否するのが最適な応答である。

 

 昔のサイエンス・フィクションに出てくる、自動小説執筆機にでもなった気分だ。文脈も芸術性もへったくれもないが、大衆はそれで満足するという妥協の産物。駄作であることに気づかなければそれは駄作ではない、を地で行く文章。

 

 あるいはマルコフ連鎖

 

 発想の展開とはおそらく短期記憶の仕事だ。直近の表現を自分の中で反芻し、そこからあらたな気づきを得る。その繰り返しで文章は書かれる、ということは必ずしもないだろうが、少なくともこの日記のとりとめのなさは、そういうところから来ている。

 

 あるいは中期以上の記憶が物語のストーリーと呼ばれる。それは一日を超える長さの記憶だから日記にはならない。

 

 いまの記憶はだが、発想の展開にも足りない。不自然に短い記憶長からなる、十年前の AI のマルコフ連鎖である。だが十年前の AI がどんなだったかを思い出すだけで脳に負荷がかかり、わたしはそれを拒否している。