悪分類 ②

 意志のある悪とそうでない悪。野心のある悪とそうでない悪。まだ見ぬなにかへの想像力があり、それを現実にするためになりふり構わずに奮闘する悪と、身近な嫌がらせだけに終始する悪。呼びかたはなんでもいいが、とにかく世の中にはそういう、二種類の分かりやすい悪がある。

 

 どちらも物語の悪役になりうる。一般的な傾向としては前者の悪のほうが大物で、最終的に倒すべき敵であることが多い。はんたいに後者の悪は暫定的な敵であり、もちろん倒すべきではあるのだが、倒したところで問題が解決するタイプの悪ではない。だがとにかく、どちらも悪であるのは間違いない。

 

 後者の悪には魅力がない。かれらには思想も、哲学も、深慮遠謀もない。かれらの行動の原動力は、ただ金が欲しいとか、名声を得てちやほやされたいとか、あるいは弱いものをいじめたいとか、そういうきわめて世俗的で、自分勝手なことに過ぎない。かれらはまたひとの話を聞かない。どうみてもまっとうな指摘を受け入れる強さを持たない。

 

 したがって読者たるわたしたちは、かれらは単純に嫌なやつでありそれ以上のなにかではない、というように、非常に単純な見方をすることができる。

 

 そいつらの思想にわたしたちは共鳴しない。そいつらが存在することをわたしたちはただ単に憎たらしく思う。そいつらがいなければ世界は単に良くなるのだ、と本気で信じることができる。そして物語中盤にある対戦の最後、そいつらがこてんぱんにやられたなら、その敗北を惜しんだり死を悼んだりはせず、ただ単にせいせいする。そいつの行動を見て、その浅ましさに自分を重ね合わせて惨めな気持ちになることはあるだろうが、どちらにせよそいつは嫌なやつなので、自己嫌悪こそすれ同情はしない。

 

 というわけで、そういうただ嫌なだけの敵というステレオタイプは、倒すべき敵に仕立て上げるのに非常に適した存在である。倒されることが、カタルシス以外のなにものをも生まないから。勧善懲悪で気持ちよくなりたいならきっと、そういう敵だけが存在する世の中で、そういう敵だけを倒していればいい。

 

 だが悪にはもうひとつある。そしてもうひとつのほうの悪のほうが、より最終的な悪として描かれやすいのだ。

 

 かれらはあさましい人間ではない。かれらは思想を持ち、策謀を持ち、短期的な勝利がかならずしも長期的な成功を意味しないことを理解しており、そのうえで、長期的な成功を選ぼうとする。かれらは孤独であり、それでも孤独に耐えながら、みずからの理想を追い求めることができる。目的はひとそれぞれだが、それは少なくとも、目先の金や権力ではない。