強者の余裕

一か月前に閉幕した、野球の国際大会。最後の二試合、日本代表は緊迫した名試合を繰り広げたわけだが、残念なことにわたしは学会で海外にいた。翌日に発表が控えるなか深夜にずっと起きているわけにもいかず、結果として一番大事な二試合を、わたしは観戦することができなかった。

 

かくしてわたしはあの大会を、なかなかおかしなやり方で消費することになった。まだ日本にいたときに行われた最初の五試合、わたしは試合終了までテレビにかじりついて、わたしたちの国旗を背負った強いチームが実力に劣る相手を倒すのをじっと見ていた。さすが盤石の試合内容で、ひやひやするところはほとんどなかった。そして負けたら終わりの、勝負の醍醐味の詰まった、どう転ぶか全く分からない接戦の二試合は、翌日のネットニュースで結果を知った。

 

せっかくの手に汗握る経験のはずだったのに、もったいないとしか言いようがない。もっとも出張という不可抗力ではあったけれど。

 

さて。あの大会を見て理解したことがあるとすれば、それは自分が応援している対象がその敵よりはるかに強いときの、心の余裕の大きさになるのだろう。試合序盤にあったやや危ない場面、振り返ってみればたいしたことはないかもしれないけれど勝負のさなかではどう転ぶか分からないような場面で、現地のプレイヤーには重荷になってもおかしくないような危険の前で、けれど見ているわたしは余裕綽綽だった。どうせうまくしのぐだろう、どうせすぐに逆転するだろう。強者の余裕としか呼びようのない感情が、間違いなくテレビの前には漂っていた。

 

そしてその手の感情があらわれるのは、なにもスポーツで強いチームを応援しているときだけではないのである。

 

画像生成 AI について、非難するひとは多い。曰くやつらの生成物はパクリである、学習していいと言った覚えはない、著作権の問題をうやむやにしている。真面目にそういう議論をしようとしているひとが皆無だとは言わないけれど、かれらの多くはもはや、AI アレルギーとしか言いようのない症状を示している。

 

かれらがそういう妄信的な批判をする真の理由について、わたしは決めつけようとは思わない。絵で生計を立てていたひとががむしゃらに AI を非難するのは、それが自分たちの仕事を奪う未来を確信したからだ……と、身も蓋もないことを言ったりはしない。人心というのは複雑なものであり、そんな単純な議論で片づけられるような話ではない。

 

だがひとつ、たしかに言えることがある。かれらがいかに AI を非難し、いかなるロビー活動を行ったところで、そしてどんな倫理と法律を成立させようともくろんだところで、かれらの相手取っているひとびとはきっと、ぜんぜん怖くは感じないだろう、ということだ。